栄枯盛衰は定まりなく、浮いたり沈んだりあるものだ。天地自然にも寒暑が代わる代わる訪れる。人の道も同様であり、それが自然の摂理というものだ。クヨクヨせず、前途を疑うことなく、巡ってきた機会を嘉とし、一樽の酒とともに今夕も楽しむとしよう。
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飲酒 二十首 其一
衰栄無定在、 衰栄(スイエイ)は定在(テイザイ)すること無く、
彼此更共之。 彼(カ)れと此(コ)れと更々(コモゴモ) 之(コレ)を共にす。
邵生瓜田中、 邵生(ショウセイ) 瓜田(カデン)の中(ウチ)、
寧似東陵時。 寧(ナ)んぞ東陵(トウリョウ)の時に似んや。
寒暑有代謝、 寒暑(カンショ)に代謝(タイシャ)有り、
人道毎如玆。 人道(ジンドウ)も毎(ツネ)に(カ)くの如し。
達人解其会、 達人(タツジン)は其の会を解し、
逝将不復疑。 逝々(ユクユク)将(マサ)に復(マ)た疑わざらんとす。
忽與一樽酒、 忽(タチマ)ち一樽(イッソン)の酒と與(トモ)に、
日夕歓相持。 日夕(ニッセキ) 歓(ヨロコ)びて相持(アイジ)せん。
註] 〇更:かわるがわる、互いに、次々に現れてくるさま; 〇邵生:秦代に東陵侯
であった召平のこと。秦滅亡後、庶民となり、長安東郊で瓜を作って細々と暮らしを
たてた。その瓜が美味であったので東陵瓜と呼ばれて評判になった(史記);
〇代謝:往復交替; 〇会:理のあるところ; 〇逝:発語のことば、意味はない;
〇日夕:夕方; 〇相持:対峙する、相対立する、(酌み交わす)。
<現代語訳>
人の栄枯盛衰は定まったものではなく、
両者は互いに結びついて変化する。
秦代の邵平を見るがよい、畑の中で瓜作りに取り組んでいる姿は、
かつて東陵侯たりし時のそれとは似ても似つかぬ。
自然界に寒暑の交替があるように、
人の道も同じこと。
達人ともなればその道理を会得しているから、
めぐって来た機会を、恐らく疑うようなまねはしないだろう。
思いがけずありついたこの酒樽を相手に、
夕方ともなれば酌んで楽しむとしよう。
[松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る]
<簡体字およびピンイン>
衰栄无定在、 Shuāi róng wú dìng zài, [上平声四支韻]
彼此更共之。 bǐ cǐ gèng gòng zhī.
邵生瓜田中、 Shàoshēng guā tián zhōng,
宁似东陵时。 níng shì dōnglíng shí.
寒暑有代谢、 Hán shǔ yǒu dài xiè,
人道毎如兹。 rén dào měi rú zī.
达人解其会、 Dá rén jiě qí huì,
逝将不复疑。 shì jiāng bù fù yí.
忽与一樽酒、 Hū yǔ yī zūn jiǔ,
日夕歓相持。 rì xī huān xiāng chí.
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まず人生のはかなさ、人の命運の移ろい易さを説きます。一例として、秦の時代に東陵侯として栄耀を極めた邵平も、秦が滅亡すると庶民となり、長安の東で瓜を作って暮らしを立てた。その瓜が美味で、世に“東陵瓜”として評判を得たという(司馬遷『史記』)。
邵平は外部環境の変化により已む無く田園生活を送ることになった。それと事情は異なり、陶淵明は、自ら官職を辞して田園に帰り、閑居の生活を始めた。当然ながら、この機会こそ、道理に適った選択であり、“本来あるべき姿”に戻れたのだ、一樽の酒を酌み、喜びの時を過ごすことにしよう と胸の内を訴えている。
先に、論語微子篇に出て来る“隠者”・長沮(チョウソ)および桀溺(ケツデキ)について触れました(閑話休題278)。野良仕事でクタクタに疲れて帰宅し、手足を洗い、軒下でアグラをかいて一杯いく時が最も気がほぐれる。
そんな時、古代の隠者・長沮および桀溺とわたしは千年の隔たりを越えて直に心が通い合うのだ と《庚戌歳九月居於西田穫早稲》。すなわち、この段・「飲酒 其一」において、自ら実質的に“隠者”の生活に入ったこと、老荘思想を実践していることを宣言しています。