生物界には「車輪」がないと言います。(バクテリア類には車輪の機構をもつものがいるらしいのですが)
(p68より引用) まわりを見回しても、車輪を転がして走っている動物には、まったくお目にかかれない。陸上を走っているものたちは、二本であれ、四本であれ、六本であれ、突き出た足を前後に振って進んでいく。空を見上げても、プロペラ機は飛んでいても、プロペラの付いた鳥や昆虫はいないし、海の中でもやはり、スクリューや外輪船のような、回転する駆動装置をもった魚はいない。
言われてみればそのとおりですが、改めてこういった視点を切り出されると、自分の固定化された発想が物足りなく感じられます。
この車輪の話から派生して、「技術と環境」についての話題に移って行きます。
(p74より引用) これらの技術がわれわれの暮らしを豊かにしてきたのは、間違いのない事実である。しかし、使い手を豊かにするという観点ばかりに重きをおいて技術を評価する従来のやり方を、考え直すべきときにきているというのもまた事実である。
技術を評価するメルクマールは、「豊かさ」以外にも、「人間との相性」や「環境」という観点も必要だとの主張です。
(p74より引用) 人間との相性ということからみれば、道具が、手や足や目や頭の、すなおな延長であれば、それに越したことはない。作動する原理が、道具と人間とで同じならば、相性はよくなる。残念ながら、コンピュータやエンジンは、脳や筋肉とはまったく違った原理で動いている。だから操作がむずかしいのである。自動車学校にみんなが行って免許をとらなければいけないこと自体、車というものが、まだまだ完成されていない技術だという証拠であろう。
こういった観点からは、自動車もまだまだ未熟な技術ということになります。
さらに、論は続きます。
(p75より引用) 環境と車との相性の問題は、大気汚染との関連で今まで問題にされることが多かった。しかし、ここで論じてきたように、車というものは、そもそも環境をまっ平らに変えてしまわなければ働けないものである。使い手の住む環境をあらかじめガラリと変えなければ作動しない技術など、上等な技術とは言いがたい。
自動車を「環境を自分に合わせなくては機能しない未熟な技術」と喝破する視点は、私にとっては非常に斬新に聞こえました。
車輪という技術は、極めて限られた条件下の「環境」においてのみ適用できるのです。
そういった環境条件が満たされない場合は、車輪という技術を捨てるか、逆に、車輪に適合するよう「環境」を変えるか、のいずれかの道を選択することになります。
自然界の生物は前者を選択し、人間は後者を選択したのです。