「仮説」であるということは、「万人における真実ではない」ということです。
ある人のある見方からすると「真実」に見えるが、他の見方が存在するかもしれないという状態です。
この場合、Aという仮説に対して、Bという反対仮説が想定されます。こういう状態では、人はついついAとBのどちらの仮説が正しいのかと考えてしまいます。
他方、「相対化」は「双方を正しいと認める考え方」です。
(p188より引用) 複数主義ともいいますが、ようは、全体を統一する絶対的な唯一の仮説がないという意味で、仮説と仮説が常に共存しているのです。
どっちが正しいかではなく、両方とも正しいというのが、相対性理論の根っこの考え方なんです。絶対的な基準がなくて、状況に応じた相対的基準しか存在しないのです。
Aの世界観でみるとAが正しく、Bの世界観で見るとBが正しい、AとBの世界観は、どちらが正しいというものではないということです。
こういう理解の仕方は、人と人とのコミュニケーションにおいても参考になります。
(p226より引用) 話が通じないのは、自分の仮説が相手に通じていないということです。また、相手の仮説を自分が理解していないということでもあるのです。・・・
お互いの拠って立つところの仮説に気づくことにより、相手の心積もりもそれなりに理解できようというものです。それが現実の世の中でしょう。・・・
自分の仮説を絶対視せず、他人の仮説をも理解しようとする柔軟な態度にほかなりません。それは、価値観の相対化といっていいでしょう。
世の中を相対化してみると、それまで自分が採用してきた(頑なな)仮説のもとではまったくみえていなかったことがみえてくることがあります。
これは、いわば「視座の相対化」とも言えます。
「価値観の相対化」を当たり前のことと理解するためには、仮説を仮説としてきちんと教える態度が必要になります。
(p175より引用) わかっていないことについては、わかっていないとちゃんと教えるべきなんです。その線引きを曖昧にしてはいけません。・・・
100パーセントわかってはいないのに、100パーセントわかったかのように強制的にみんなに教えてしまうと、だれもが先入観としてもってしまって、疑問に思う人がいなくなってしまいますよね。
わかったことだとの「思い込み」は思考を停止させます。
仮説であるからこそ、さらなる探究心が生まれるのです。