雨あがりのペイブメント

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映画「フューリー」なぜ今戦争映画なのか

2014-12-11 23:05:07 | 映画と小説

映画「フューリー」なぜ今戦争映画なのか

キャッチコピー 1945年4月…………たった5人で、300人のドイツ軍に挑んだ男たち

        「理想は平和だが、歴史は残酷だ」

主演、ブラッド・ピット。

 映画は、第二次世界大戦末期、戦車を駆使してナチスドイツ軍に立ち向かう5人の兵士たちの過酷な戦争の一場面を描く。ハリウッド映画得意の男性路線戦争アクション映画そのものである。

 1945年4月。第二次世界大戦末期、たった一台の戦車でナチス・ドイツ軍の兵士300人と死闘を繰り広げた、アメリカ兵士5人の姿を描いた映画「フューリー」。上映時間135分は音響効果と共に、臨場感にあふれ一気に結末へと運んでくれる。

 欠員補充で18歳の新兵ノーマンが加わり、5人となったが、「フューリー」と名付けられた戦車に乗って、ドイツ前線、ナチ政権の最後の抵抗が展開される戦場に進行していく。

 主演のブラット・ピツトが存在感あふれる演技で、観客を惹きつけていく。また、異人種多民族国家のアメリカらしく、この映画でも、メキシコ系アメリカ人、敬虔なクリスチャンなど個性的なキャラクターの設定が物語の奥行きを深くしている。

 また、人を殺すこと(殺るか殺られるかの戦場では、日常の出来事なのだが)新兵ノーマンは、人を殺すことを頑なに拒否するのだが、時を経るにしたがい、「兵士」として変貌し、何の躊躇もなくドイツ兵に照準を合わせていく過程が、私には不気味に思えた。

 「極限状況に生きる人間の逞しさ」という見方もできるが、「戦争が人間を変えてしまう」という見方もできる。ベトナム戦争で多くのアメリカ兵が、精神的疾患にかかり、社会的問題になったことも記憶に新しい。   

   映画「ランボー たった一人の戦場」。主演・シルベスター・スタローンがべトナム帰還兵として描かれるが、戦場の英雄が、アメリカ社会で生きて行けず、次第に社会から孤立していく様を描いている。これなども、「戦争が人間を変えてしまう」例えとして見ることができる。

 戦車が壊れ、300人のドイツ兵が迫ってくる。この状況下でも「退却」を考えず、5人の兵士に向かってただひたすら敵に向かって戦いを命じる小隊長はまさに「ウォーダディー」(「戦争のプロフェショナル」という意味か)という異名にふさわしい。壊れて動かない戦車・「フューリー」を盾に戦いが開始され、映画は最終章を迎える。結果は見てのお楽しみ。

 全編、火薬の爆発とすざましい銃器の発射音。泥だらけの兵隊。ドイツ兵の死体をキャタビラで踏み潰していく戦車。爆裂で穴が開き、雨の中、泥濘と化した前線でブルトーザーが泥と死体を穴のなかに押し込んでいく。命乞いする捕虜となったドイツ兵の背中に打ち込まれる銃弾。炎に包まれ絶叫する兵士。道端に吊るされた戦争拒否者の死体、戦争が決して国と国だけの戦いではなく、一般人まで巻き込んでしまう愚かしい行為であることをさりげなく訴えているのだろう。戦車はそのような風景のなかを淡々と走っていく。

 血と汗と暴力にあふれた映画たが、多くの戦争アクション映画と異なり、不思議と「嫌悪感」や「違和感」がなかったのは、底流に流れている、「生きるとは」、「戦争とは」というもう一つのテーマがあるからだろう。

 タイトルでもあり、小隊長・ウォーダディー率いる戦車の名前でもある「フューリー」とは、「激しい怒り」という意味らしいが、敵兵に対する怒りなのか、過酷な戦争に対する怒りなのか。映画は意思表示していない。

 帰れるかどうかわからない戦場で、任務を全うすることに全力を尽くし、生き抜こうとする兵士たち。それが、極限状況にいる兵士たちにとって、最も正直で誠実な生き方なのでしょう。戦場でたくましく生きるとは、そういうことなんだと、映画は観客に語りかけているのだろうか。

 それにしても、なぜ今戦争映画なのか                   

                                                                                                                                (終)

       2014.12.11記

 

 

 

 

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