雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

終戦記念日・白旗の少女(3)

2017-08-19 08:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

  白旗を掲げ投降する少女・比嘉富子さの証言(3)
                 
 この記事は私のブログ「白旗の少女」の
                     (1)沖縄戦 家族を失い投降(2015.8.5)

                                          (2)二枚目の写真の真相(2015.8.6)
                                                      (3)少女が見た地獄(2015.8.16)
                                                      (4)老人夫婦との出会い(2015.8.19)掲載の記事を再編集し、
                                           「太平洋戦争を記録する講演会」(2017.08.06)にて発表した原稿である。

 

自分が生き残るためには、
たとえ相手が味方の兵隊であっても、
それどころか、なんの抵抗もできない母親でも、
わたしのような子どもでも、
そして、赤ちゃんでさえも殺さなければならないなんて……。

沖縄の戦争が最も悲惨だったのは、非戦闘員の住民が巻き込まれたことです。

 

七歳の少女は、沖縄の戦場をたった一人で、
地獄の風景の中を彷徨い、
「白旗」を掲げて投降することを勧めてくれた老夫婦の隠れ住むガマにたどり着きます。
 
川のほとりに、水を求めて逃げてきた大勢の人たちが、
力尽きて死んでいました。
その死体には虫が湧き、近くの水はうじ虫だらけです。
わたしは、思いきって両手を流れに入れ、
そっとうじ虫をどかして、みずをすくい上げて飲みました。
「おいしい!」

飢えと渇きで疲労した少女にとって、
この水は、「命をつなぐ水」だったのでしょう。
うじ虫の浮いている水さえ「おいしい!」と思わず声をあげた少女の環境適応能力と生命力の強さに感動です。

 沖縄の戦場を45日にも渡って、
彷徨(さま)よい、命からがらたどり着いたガマ、
いつものように兵隊から恫喝され追い出されるのを覚悟で、
真っ暗なガマに入った7歳の少女を迎えたのは、老夫婦でした。
 
わずかな食料を分け与えてくれる老夫婦の慈愛に満ちたまなざしが、
少女に生きる力を与えたのでしょう。

わたしは、ひさしぶりに、歩くことも、ガマから追われることも、
死んだ兵隊さんの雑のうから食べものをさがすこともない、日々を送ることができました。
しかし、老人には手足が無く、
失った手足の傷口には血が滲みうじが湧いています。

 
老婆の方は目がみえず、
文字どおり少女が二人の手となり足となってかいがいしく世話をする姿は、
老夫婦にとってはガマの暗闇に咲いた小さなかけがえのない希望の灯りと映ったことでしょう。

 戦況はますます悪化し、
このままの状態では、
やがて食料がつき、三人の餓死は免れません。
この体では、この先いくらも生きられない。
わたしたちの体は死んでなくなっても、富子の心に生きつづけることができる。

 そう諭された少女は、ガマをでてアメリカ軍に投降することを決心する。

 老人のフンドシを裂いて作った白旗を木の枝に結び付けて、少女は老夫婦の住むガマを後にする。

やがて少女はアメリカ軍に保護されたが、ガマに残った老夫妻のその後は誰も知らない。

 アメリカ軍の記録によれば、少女が保護された日は、昭和20年6月25日だという。
 昭和20年8月15日、玉音放送により日本の降伏が国民に公表される50日前のできごとでした
                                        (おわり)

 



 

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