映画「孤狼の血」 なぜ今この映画か
昭和の終わりを舞台に、「広島やくざ戦争」を描く
映画の内容をキャッチコピーから紹介する。
広島の架空都市・呉原を舞台に描き、「警察小説×『仁義なき戦い』」と評された柚月裕子の同名小説を役所広司、松坂桃李、江口洋介らの出演で映画化。
「凶悪」「日本で一番悪い奴ら」の白石和彌監督がメガホンをとった。
昭和63年、
暴力団対策法成立直前の広島・呉原で地場の暴力団・尾谷組と新たに進出してきた広島の巨大組織・五十子会系の加古村組の抗争がくすぶり始める中、加古村組関連の金融会社社員が失踪する。
所轄署に配属となった新人刑事・日岡秀一は、
暴力団との癒着を噂されるベテラン刑事・大上章吾とともに事件の捜査にあたるが、
この失踪事件を契機に尾谷組と加古村組の抗争が激化していく。
ベテランのマル暴刑事・大上役を役所、日岡刑事役を松坂、尾谷組の若頭役を江口が演じるほか、
真木よう子、中村獅童、ピエール瀧、竹野内豊、石橋蓮司ら豪華キャスト陣が脇を固める。
1970年代の初め、東映が『仁義なき戦い』のシリーズで華々しく映画界を席巻していた。
アンモラルで理性や情感をそぎ落とした渇いた映画だった。
高倉健や鶴田浩二、池部良、藤純子たちが醸し出す任侠の世界を情感豊かに描いた映画は、
多くの人々の心を捉えた。
「任侠」という日本独特の精神世界に「情」というスパイスをたっぷりと振りかけて料理された任侠映画は一世を風靡した。
「義理」や「恩」に縛られ、「情」にほだされるが、
ラストを飾るのは、
「義理」に縛られ意地を通す男や女を描き、リリシズムの中に滅びの美学を謳いあげる。
しかし、多くの観客を動員した「任侠映画」も、やがてマンネリズムの袋小路に嵌(はま)り、
衰退し終焉を迎えた。
(「昭和残侠伝・死んで貰います」)
続いて東映が企画した映画が、「仁義なき戦い」実録路線シリーズの登場だ。
松方弘樹や菅原文太が眼をギラギラさせて、スクリーンせましと暴れまわった。
「血と暴力」を徹底して描いたシリーズだったが、どうにも抑えきれない若者たちの内面でたぎり、
沸騰する破壊行動は、一種の青春のエネルギーの爆発だったのだろうか。
まったく新しいタイプの映画もやがてシリーズものの宿命なのだろう、
いつしかスクリーンから姿を消していった。
(「仁義なき戦い・広島死闘編」)
そして、「孤狼の血」
在りし日の東映の黄金時代を思い出させる懐古趣味に満ちた映画だ。
冒頭、養豚場での目を覆いたくなるような惨劇から一気に引き込まれる。
というよりは、なぜこんな過激で刺激的なグロの場面を冒頭から描かなければならないのか、
私には理解できない。
しかも、こうした暴力シーンは映画全体に満ち満ちている。
ただ執拗に血の暴力シーンを描くことにどんな意味があるのだろう。
ドスで突き、ピストルで撃つというような、かっての東映作品が描いた単純なものではない。
目をそむけたくなるような暴力シーンの連続。
近年、こんな酸鼻きわまりないバイオレンス・シーンが東映の、
いや日本映画のスクリーンで展開されたことはない。
裏切りと駆け引き。
やくざと癒着する悪徳刑事。
これを監視し密告の使命を負った若い刑事。
一体「正義」は存在するのかと思わせるような映画だが、たんなる悪徳刑事ではない。
又、密命を帯びた刑事がどんな変化をもたらすのかが映画のカギとなる。
私にとってはドギツイバイオレンスシーンばかりが強調され、
東映やくざ映画の「夢よ再び」といった新しいものの感じられない、懐古趣味の強い映画だった。
大々的に新聞等で宣伝した割には、観客動員はいま一つさえない理由もこの辺にあるような気がする。
(ちなみに、朝一番の上映に観客は私も含めてむさくるしいオッサン3人。いずれも、ちょっと不機嫌な顔して劇場を出た。)
最後にタイトルについて。
「孤狼の血」が示す「血」とは何か。一般的には群れを嫌い、やくざ組織と対峙し、「血」の匂いを撒き散らす一匹狼というイメージだ。だが別のイメージもある。
「血筋(ちすじ)」というイメージだ。この第二のイメージがラスト近くになって描かれてくる。
この映画は柚木裕子の同名小説を映像化したものだが、
私は未読のために評価の内容は映画に限定していることをご理解ください。
(しばしば、原作の一定の部分を強調し、原作と全く異なる映画が創られることがあるからだ)。
(2018.06.05記) (映画№17)