読書案内「星と祭」井上靖著
愛する娘の突然の死、父の哀しみは深い……
(1971年から約1年 朝日新聞に連載)
( 能美舎 2019.10 第1刷 復刻版 ) (1972発行 絶版で入手困難)
生きることは、喪失の連続?
人生とは意気に感じれば、楽しみも多い。生きがいも感じられる。
だが、人生行路は楽しみや喜びだけではない。
仏教の教えは、「生老病死」といい、4っつの苦しみを挙げている。
「生」きることそのものが「苦」であると、老いることも、病も、やがて訪れる死も
すべて「苦」という概念でとらえようとしている。
長い人生行路の過程では、突然襲い来る「悲しみ」がある。
小説「星と祭」では、わが娘を突然の事故で失くした親の
苦しみや悲しみを、淡々とつづり、喪失の悲しみを、
わが子の突然の死を通じて描いている。
離婚して母の下で育てられた高校生のみはるが、大学生の青年と琵琶湖でボート
転覆という思いがけない事件で短い一生を終える。
父親の架山が全く知らない大学生の青年とボートの転覆事故。
二人の遺体が上がらないまま7年の歳月が流れ、癒されることのない時間が流れる。
この7年間は、法的には「行方不明」ということになる。葬儀もできずにいるから、
心のよりどころもないままの辛い七年であったろう。
72歳になった架山は、7年を経てやっとあの日の事故現場を、
事故以来初めて訪れることになる。
少女みはるの父「架山」…… 堅実な発展をしている貿易会社の経営者
大学生の青年の父「大三浦」…… 従業員数十名の町工場の経営者
子を喪った悲しみは深いが、それぞれの喪った子どもへの思いは異なっている。
架山はヒマラヤの山中で輝く星と対峙し、娘を失くした哀しみを「永劫」、
つまり果てのない長い時間の中でとらえようとする。
私は14歳の孫を喪ったとき
哀しみは癒されることなく、果てのない時間の中で
一日が始まり、終わった。
窓辺から眺める月や星、そして風。
全てのものが喪った人への思いへと繋がっていき、
いったいいつになったらこの哀しみを越えて生きられる時が来るのだろうか。
「旅人になりたい」と言っていた孫のことを思い、
天空を仰げば孫の翔が、空の高みから舞い降りてくるような錯覚におちいり、
「じいちゃん、ぼく元気だからね」という声が聞こえてきたり、
深夜に階下を走る幼児の足音を、何度も聞き、翔が還って来たと、
ベッドの中で枕を濡らす日々が幾夜もつづいた。
哀しみに繋がる思い出は今でも消えることなく、
おそらくは、生涯消えることのない哀しみとして残っていくのだろうと思っている。
話を本題に戻します。
架山や大三浦がたどり着いた悲しみの弔いは、琵琶湖周辺に点在する観音堂に祀られている
観音様に対面することだった。
二人にとって観音様との対面は、不思議な安堵感をもたらし、
自分の内面に沈んだ深い悲しみを浄化していく行為でもあった。
湖底に沈んだ二つの遺体はついに姿を現すことがなかった。
葬儀もできず、戸籍から抜くこともできない中途半端な現実が
7年の時間を経て死亡届を出すという現実的な時間となって架山と大三浦に訪れる。
7年の長い時間は、「子どもたちの死」を認め、哀しみを乗り越えて生きていくための
試練の道でもあったのでしょう。
架山は娘の死を「運命」と捉え、何とか哀しみを乗り越えようとしているが、
大三浦は何時までも哀しみを抱き続けている。
そうした二人がたどり着いたのが、琵琶湖畔に点在する十一面観音を巡って手を合わせ、
湖底に沈んだそれぞれの子どもたちの霊を祀って、
鎮魂を願うことで互いの哀しみを乗り越えようとする。
小説ではこの期間を「殯(もがり)」のための長い時間だったと架山に言わせている。
【殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬送儀礼。 死者を埋葬するまでの長い期間、
遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつ
も遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認す
ること。 その柩を安置する場所をも指すことがある。】(ウィキペディア)
著者・井上靖は「自作解題」で次のように述べている。
私は一番の問題は子供の死という事実をいかに納得するかということではないかと思います。
運命だと観じることによって諦めへの道をとるか、あきらめることはできないで、永遠に悲しみを
懐いて、祀ることによって不幸な死者の鎮魂を願うか、この二つのうちのいずれかではないかとい
う見方をしています。(引用)
かけがえのない大切な人を喪い、悲嘆にくれ、
生きる力を失くすような深い哀しみに襲われるが、
長い時間をかけて、人は生きる力を取りもどしていく。
だが、哀しみが癒されることはない。
14歳の私の孫・翔はいつまでも14歳で、
私だけが歳を取っていく。
今、私はやっと天に昇った14歳の翔と一緒に、
日々を生きていくことができるようになった。
こういう心境が「祀る」ということであり、
「魂の鎮魂」ということなのかと、
コロナの夏を元気に生きることができました。
小説「星と祭」の「星」は運命を現し、
祭りは鎮魂を意味しているようです。
「翔」のことは「翔の哀歌」というタイトル(カテゴリー)で
15回に分けて当時の心境をまとめています。
(読書案内№154) (2020.9.13記)
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