自由民権運動・福島事件(喜多方・三春)そして加波山事件へ
弾正ケ原から喜多方へ
弾正ケ原は、山形・新潟・福島の三県に渡る飯豊山2105メートルを遥かに仰ぐ、
会津盆地の時代に取り残されたような風景の中にひっそりと佇んでいる。
草が茂り、中央に立つ大ケヤキのみが当時の歴史を想像させる。
小高く土盛りしたような地に、弾正ケ原に集まった近隣の農民を睥睨(へいげい)するように立つケヤキ。
そのケヤキに登って民権運動の闘士たちが、
福島県令・三島通庸の三方道路政策の非を暴き、
ひいては明治立憲政治への不満を民衆に説いたことだろう。
おそらく自由民権運動の活動家・瓜生直七あたりがケヤキに登って演説をし、
農民を一つの意志にまとめていったのだろう。
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喜多方市史によればこのとき集まった農民は3,000人と記録されているが、
この人数が誇張でなければ、弾正ケ原はもっと広かったに違いない。
傍らには「弾正ケ原」の名前の由来となった、栗村弾正清作の墓があり、
屋敷跡でもあることが明示されている。
今はただ、栗村家の墓があるだけで往時をしのぶ痕跡は何もなく、
草莽の上を田園の風が通りすぎていく。
(自由民権之地 弾正原の石碑) 自由民権発祥の地
自由党の活動家・宇田成一等の拘留見舞いに集まった農民たちは、
弾正ケ原で集会を開き、
「総代者が喜多方警察署で交流の理由を正してことを運ぶべきだ」として、解散したが、
総代たちが警察署に着くころには、農民の数はふたたび膨れ上がり、投石などの暴挙が起こり、多数の検挙者を出した。
明治15年11月28日。喜多方事件の発端である。 (郷土の歴史№1)
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