雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

塩は何時ごろ作られたのか (郷土の歴史№6)

2018-01-10 08:06:28 | 郷土の歴史等

塩は何時ごろから作られたのか
「塩」は生物にとって大切なものです。
アフリカの原野などでは動物たちが昔から本能的に岩塩や塩湖で補給していたことが知られています。
奈良時代の「常陸国風土記」には霞ヶ浦沿岸の人々が製塩していたことが記載されているそうです。

 1万年以上も続いた縄文時代の後~晩期にはすでに製塩されていた証拠が出土しています。

あの素晴らしい縄文土器を生み出した縄文人の精神性の高さには驚かされます。

製塩土器 茨城県・広畑貝塚、上高津貝塚
  広畑貝塚・上高津貝塚は、
霞ヶ浦の南西岸の丘陵の裾に位置する縄文時代後期から晩期前半にかけて営まれた貝塚です。
(当時は霞ケ浦は海と繋がる入り江になっていました。)

ここから、土偶、耳飾り、貝輪などたくさんの遺物が出土しています。
また、炭酸カルシュウムが固化して付着している無文薄手作りの土器も出土していることなどから、
縄文時代に製塩が行われていたのではないかとする説の根拠になっており、
縄文時代の生産活動を解明する上でも重要な遺跡です。
(上高津博物館より)
この土器は塩水を入れ煮沸して塩をとる(煎熬・せんごう)ために使われた土器で、
広畑貝塚をはじめとする霞ヶ浦沿岸から、
縄文時代の製塩遺跡や製塩土器が多く見つかっている。
当時の製塩は土器などで海水を煮詰めておこなったと考えられている。
あの手の込んだ縄文模様は施されず、
注入した海水を煮沸するためにできるだけ薄く作られています。
海水が煮詰まり、塩ができると器のまま運搬され物々交換にも利用されたようです。
塩を取り出すときには器を割って取り出したようで、
出土するほとんどの製塩土器は粉々になっています。

縄文製塩土器の終焉

 東日本で生まれた土器を使った塩づくりは北上して東北太平洋岸を北上し、
宮城、岩手、青森へと広がっていくが海を渡って北海道に伝わる前に姿を消します。
次の弥生時代へ技術が伝播されることはなかった。
縄文製塩土器の技術が消滅してから、約1000年後、本格的な土器製塩が始まります。
約2300年前の弥生時代です。
この製法は東日本の瀬戸内海辺りに起源を求めることができます。
おそらくは朝鮮半島からもたらされた技術と推測されますが、
1700年前ごろには広範囲に拡散していったようです。
その反面、縄文時代には塩の一大産地だった東日本では
弥生時代に入ってから製塩土器がほとんど見られなくなってしまいます。

 縄文時代から弥生時代への移行の中で、
なぜ製塩の技術が途絶えてしまったのでしょう。
縄文土器に魅せられた私には当分、眠れぬ夜を過ごすことになるのでしょう
   (2018.01.09記)



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