何かに追いかけられて…
|
激動の昭和は、
焦土と化した国土の復興から立ち上がるための
なりふり構わぬ経済活動に皆が邁進した時代だつた。
「企業戦士」などという言葉が、
誇らしげに語られた時代でもあった。
同じような言葉に、「モーレツ社員」などと言って、
会社のためになりふり構わず、
家庭や個人を犠牲にして働く男たちがもてはやされた時代だった。
さて、平成時代はどうであったか。
平成元年(1989) ………… ベルリンの壁崩壊
3年(1991) ………… 湾岸戦争勃発
7年(1995) ………… 阪神・淡路大震災
12年(2000) ………… 三宅島噴火
13年(2001) ………… アメリカめ同時多発テロ
26年(2014) ………… 御嶽山噴火
平成の時代と重なって忘れられない悪夢のような事件が発生。
オーム真理教の一連の事件だ。
事件を起こした者たちは大まじめで自分たちの社会を作るために
殺人も厭(いと)わず正当化したところに救いがたい社会の亀裂を感じます。
そして、平成に起こった忌まわしい事件は、
平成のうちに決まりをつけ早く忘れたいとでもいうように
平成30年(2018) ………… 松本元死刑囚をはじめ13人の死刑が執行された。
平成の時代は、低成長が長く続き社会の中で経済のかじ取りを担うような大きな会社が
企業倫理に反するような不祥事を起こし、不祥事の隠ぺいなど社会問題にもなった。
ブラック企業などという不名誉な看板を担がされた企業もたくさんあった。
労働力不足も一向に改善されない。
価格競争のはてに、労働者にとって職場環境は過酷になっていく。
販売価格を低く抑えれば抑えるほど、労働者の賃金が抑制されてしまう。
低価格設定の裏で泣くのはいつも労働者だ。
「労働力不足と低賃金」という問題を解決できなければ、
経済の回復は望めない。
経済活動を基盤とする社会システムは、
頂点目指して這い登る自由競争という階段を、
高み目指して昇りつづけなければならない。
競争の階段には上限がない。
ピラミッドの頂点にたどり着いたら、
繁栄と安心が迎えてくれるわけではない。
更なる競争相手が現れ、
この凌ぎを削る競争社会を、
弱肉強食の社会ととらえることには抵抗がある。
世界の平和や社会の安定が、
経済社会の目指す方向ならば、
せめて共存共栄ととらえたい。
花が最も美しい時を迎えたときから、
すでに美しさは滅びの予感を漂わせ
凋落の坂道を下り始める。
果てのない競争社会の中で私たちは
時にストレスを抱え、
時にひと時の幸せに生きる喜びを感じながら
生きている。
いつも何かに追われているような焦燥感がある。
それは、
社会そのものが時間の中を漂流する小舟のように揺られ
流動しているからなのだろう。
平家物語や方丈記に謳われた無常観を私たちは心の底に抱えている。
だが、パスカルが瞑想録の中で述べているように
人間は「風に揺らぐ一本の葦」であるけれど、「考える葦」だという。
歴史を見れば、時々間違った方向に進むこともあるが、
人間の英知は努力し、軌道修正をする力を持っている。
NHK世論調査によれば平成の時代は
「戦争がなくて平和な時代」だと79パーセントの人が回答している。
世界全体を眺めれば、いつもどこかで戦争の火種がくすぶっているのだが
とりあえず「日本では」という条件付きの解答なのだろう。
しかし、一方では
「社会的弱者にやさしい社会」と回答した人は3パーセントだった。
平和であるけれども、
余裕のない、生きずらい社会の存在があることを私たちは忘れてはならない。
「幸せ」感も、私的で「囲い込み」の幸せが蔓延し、
多くの人が享受できる幸せではないと考えなければ健全な社会とは言えない。
災害国日本では災害が起こるたびに、「復旧」「復興」が合言葉のように言われるが、
「心の復興」こそが必要な時代なのではないか。
何かに追いかけられるような焦燥間の漂う社会は生きずらい社会です。
令和の時代が穏やかで、やさしい社会であることを願いたいですね。
(2019.11.01記) (昨日の風 今日の風№103)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます