日航機墜落事故 37年目の夏 ③ 慰霊の園・慰霊の塔
慰霊の園 慰霊の塔
(図3) (図4)
慰霊の園には次のような案内板があります。全文を掲載します。
昭和60年8月12日夕刻、日航機JA8119号機が上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、
五二〇名の尊い命が昇天されました。
本来ご遺族の元に帰り供養されるべきご遭難者の遺体の一部が行方不明処置となり、
上野村に骨壺の姿で残されることになりました。
上野村々民は事故処理のお手伝いを通して、事故の凄まじさ、ご遺族の悲しみを目の
あたりにし、このような事故が二度と起こらないように願い五二〇の御霊を祀ることが
上野村々民に課せられた責務であると考えるに至りました。
上野村は険しい山々に囲まれ平坦な土地のほとんどない所ではありますが
この趣旨に賛同した村民有志が土地を供出し慰霊の園を建設することができ
御巣鷹の尾根に向かって合掌した形の慰霊塔が末永く聖霊をお守りすることとなりました。
ここ慰霊の園にご参拝いただく皆様と共々、末永くお御霊をお慰めし、
交通安全を祈ってまいりたいと存じます。
合掌
平成元年
財団法人 慰霊の園
(図4) (図5)
慰霊の塔(図3)(図4)の真後ろには123の壺に納められた身元識別不能として、
この地で荼毘に付された犠牲者の遺骨が納められています(図5)。
当時はまだDNA型判定技術が難しかった時代です。
バラバラになった身体の部分なかなか特定することが難しく、
遺族が面接してはっきり確認できた遺体は520の犠牲者のうちの60体のみだったという。
もっとも破壊された遺体は身体の部位すらわからない分離遺体(骨肉片)であった。
墜落遺体がいかに悲惨であったかわかります。
最終的に身元の確認されたのは518名だが、
分離遺体の納められた101の棺はその年の12月20日に荼毘に付され、
慰霊の園の納骨堂(図5)へ納められた。
5カ月にわたる検屍会場となった市民体育館は、
遺体の腐敗臭が消えず解体され、現在は公民館になっている。
身元確認作業が終了した12月18日までの延べ127日間で、
出動した医師、歯科医、看護師は2891名に及ぶ。
身体に食い込んだブローチ、アクセサリー、歯形、手術痕などを頼りに
バラバラになった身体の一つ一つに身元確認の手がかりを発見していった
遺体確認にたずさわった人たちに敬意を表したい。
群馬県上野村について
航空機墜落事故の現場となった上野村。当時の人口は2122人634世帯の村全体の95%が山林の
交通の不便な山峡の村だった。ちなみに37年経った現在の人口は1095人(令和4.8.1)。
群馬県で一番人口の少ない村といわれている。裏を返せば、自然豊かで、ゆったり生きられる村で、
移住支援やシングルマザー支援などにも力を入れていると言われています。
村のホームページの『観光』のページを開いても、自然を謳う観光施設は出ているが、
航空機墜落事故の現場であることには一切触れていない。
これは、村の方針が「事故関連現場と施設は失われた御霊を慰霊する鎮魂の場」と
位置付けるとしていることに由来する。
だから、慰霊の園は国道から遠くない所にありながら、観光バスの乗り入れは禁止とされている。
事故の責任はどうなったか
1987(昭和62)年6月(事故から2年後)、
運輸省航空事故調査委員会は事故の原因を、後部圧力隔壁の修理ミスと報告書をまとめた。
捜査にあたった群馬県警は1988(昭和63)年、業務上過失致死の疑いで、
日航とボーイングなどの関係者20人を書類送検した。
しかし、前橋地検は1989(平成元)年、
ボーイング社がミスを認めている(このことは拙ブログ「日航機墜落事故 37年目の夏 ①」でも触れた)
にも関わらず全員を不起訴処分とした。
1990(平成2)年8月12日、公訴時効が成立する。
37年を迎える2022年にあっても、この事故は単独機の航空事故として犠牲者数が
世界最多となっている。
(この項はBusiness Journalの兜森 衛氏の記事参照)
(昨日の風 今日の風№135) (2020.8.30記)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます