誰が国を守るのか(1)
専守防衛と集団的自衛権
戦後日本の安全保障政策の大転換をしようとする安倍政権はその基本理念を、「国民の生命を守りつつ世界の平和と安定のために積極的に取り組む」としています。
これが積極的平和主義です。
でも、平和主義になぜ「積極的」という冠を載せたのでしょう。
まるで私たちの国が、「平和」に対して何もしてこなかった。
アメリカとの安保条約という大きな傘に守られ、何かあっても同盟国アメリカが守ってくれるからという安心感のもと、安穏とお仕着せの平和に甘んじていたとでもいうのでしょうか。
憲法9条は、「戦力を持たない」、「交戦権は認めない」と明記してあります。
「自衛隊は戦力か」という解釈の問題で、過去に違憲ではないかと争われたことがありましが、
合憲だということで現在に至っています。
自衛隊は専守防衛の組織だから、有事に際して国民の生命や財産を守るための必要最小限度の実力組織であって、普通の軍隊のように海外で武力を行使することはできない。
同盟国のアメリカが戦闘行為をしている戦場で、集団的自衛権が行使できれば、
自衛隊は外国の陸海空軍となにも違わず「戦力」を持ち、
集団的自衛権の大義名分を旗印に掲げて「闘う集団」=軍隊として機能することができる。
ここが、問題なのです。
我が国を「戦争のできる国」にしては絶対にいけない。
しかし、今問題になっている「集団的自衛権」は、自衛隊を専守防衛の組織ではなく、
同盟国の安全が脅かされた場合、自衛隊は闘う集団として、
戦争に参加することができる組織にするという意図が含まれています。
戦後70年、平和憲法を守り育ててきたその根幹が今音を立てて崩れようとしているのです。
集団的自衛権の行使には、
「武力には武力を」、「目には目を歯には歯を」という対立の姿勢が見え隠れしています。
そこでは、人間の「英知」を賭けた話し合いの解決という理念が遠ざかってしまいます。
再び世界が、戦火の渦に巻きこまれれば、一番の被害者は、力を持たない民衆であることは、現在、過去を問わず、多くの戦争が示しています。
集団的自衛権は、危険で容認しがたい考えです。 (2015.9.11記) (つづく)
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