世界文化遺産・富岡製糸場
日本近代の光と影 ③
富岡製糸場 最後の経営者・片倉工業
官営として操業開始をしたが、必ずしも黒字ばかりではなかった。
高品質に重点を置いた生糸生産体制は、海外でも好評で、「日本の生糸」というブランド作りには成功したようです。
また、機械製糸の普及と技術者の養成という当初の目的もおおむね達成され、明治26(1893)年三井家に払い下げられた。
操業開始後21年の明治26年のことでした。
一時は清国を抜いて世界最大の生糸輸出国となったが、その後も経営母体が変わり、昭和14(1939)年には、
日本最大の製糸会社であった最後の経営者・片倉工業に合併され、戦中・戦後を通じ製糸工場として操業を続けた。
しかし、生糸値段の低迷などがあり、昭和62(1987)年115年の歴史に幕を引くことになった。
「売らない、貸さない、壊さない」
操業停止した片倉工業は、富岡工場管理事務所に常駐社員3人を置き、
5万平方㍍余の敷地の維持管理を続け、往時の建物の姿を今日に残した。
年8千万円前後の管理維持費を出資しながら、
『誰にも売りません、貸しません。壊しもしません』と、柳沢元社長は、
明治政府創生期に、日本の産業革命の一翼を担って、
「富国強兵・殖産興業」を推進した歴史的な文化遺産建造物の価値を、18年間守り通したのでしょう。
2005年世界文化遺産登録の動きの中、片倉工業は富岡製糸場の建物を富岡市に無償譲渡した。
そして、今年6月21日、世界文化遺産に登録が決定し、街は歓迎ムード一色となり、
操業開始から142年目の、富岡製糸場の新たなスタートの灯りがともった。
現代の「富国強兵・殖産興業」
戦争放棄をうたう憲法第9条の解釈を、こじつけでねじ曲げ、集団的自衛権を閣議決定した。
「戦争のできない国」から、できる国への大転換である。
また、経済面では「成長戦略」の推進として、TPP(環太平洋経済連携協定)への参加を急ぐ安倍政権です。
企業間の格差が広がり、貧困層が拡大する危険が十分にある。
成長戦略を急ぎ、低迷した経済からの脱却を図り、福島第一原発の事故究明さえ明らかでないのに、
原子力発電の再稼働や、海外への輸出に焦る安倍政権。
明治新政府が担った「富国強兵・殖産興業」に、政策がダブって見える。日本は何処へ進んでいくのか。
(おわり)
(2014.8.3)
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