『自転車の車輪』
車輪、地に着くべきものが空を向いている。
車輪を回すべき動力の欠如。
車輪ではあるがタイヤがない。
黒と白、正円は確かに美しいかもしれないが、装飾というには足らない。
危ういものの倒立、バランスを保ってはいるが少しの圧で倒壊は免れない。
この取るに足らない無用の長物の眺望。この物における主張の内在。
部品は部品のみでは機能は発揮されず、時間の中でただ存在するというだけの物に留まる。停止・・・意味の消失。
手の力を加えれば回転するが、その回転のエネルギーは無に帰してしまう。
空転の奇妙な寒々しさ、空虚、空漠の景色が浮上する。
物体には自覚がない、何かをしようとする自動的な働きは皆無であり、他動・・・人力により初めて稼働する。
単なる円形は圧によりその形を崩すが、多数のスポークはそれを拒む。基本的な力学の応用、ここには人知の結晶があるが、総合的に機能を駆使できない部品(パーツ)に過ぎない悲哀。
機能性という前向きなエネルギーの欠如、存在意義の霧消。
《空虚の景色》を表象する『自転車の車輪』、何もないことの空漠は絵画には描けない。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschenより)
次の晩もゴーシュがまた黒いセロの包みをかついで帰ってきました。そして水をごくごくのむとそっくりゆふべのとほりぐんぐんセロを弾きはじめました。t
次はジと読んで、二。
晩はバンと読んで、判。
黒いはコクと読んで、告。
包みはホウと読んで、法。
帰ってはキと読んで、記。
水はスイと読んで、推。
弾きはダンと読んで、談。
☆二つを判(区別すること)を告げる。
法(神仏の教え)の記を推しはかる談(話)である。
もっとも、こんなことは、ほとんどなんの証明にもなりません。わたしの知っている秘書の数は、いま問題にしている秘書の数にくらべたら、ごく限られたものですからね。
☆証明するものは殆どありません。わたしの知っていることは、ここで比較しても数は限定されているので確かではありません。