人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識的であることの重み

2023-10-27 01:41:42 | 意識、照明
所謂ノンデュアリティの道では、今でも”人間には自由意志などない”、という教えが説かれ、信じられているようです。
自由意志はあるのか、どうか?...どう思い、感じようとあなたや私の自由じゃないですか?
その他、定番の”あなたという個人は存在しない”、という教えでも同様です。
”それは、量子力学でも証明されているのです”、などと鬼の首を取ったようなことを言われても!...
そこでは、あなたが現実にどう思い、感じているか、というもっとも肝心なことに意識が向けられていないのです。
これでは、非二元の教えが如何に高尚(?)なものだろうと、”○○先生があなたの前世は、誰々だ”、と言ったことを無批判に、短絡的に信じ込むようなフニャけた精神と何ら変わらないですよ!
あなた自身の内なる精神は、易々と他人に売り渡してしまうほど軽いものなのですか?
だからと言って、私は(今の時点で)あなたが思い、感じたものだけが真実だ”、などと言うつもりはありませんよ!
だってあなたが思い、感じていることって、思いに固執した信念のようなものでなければ刻々変わるものでしょ!
要するに、決め付けた、固定された見解に囚われることが問題なのです。
そして、ノンデュアリティの道で強く忌み嫌われている?、思考マインドというのは、すぐ決め付けたがるのです。
思う方はともかく、現実に感じていることとズレが生じても、その借(仮)りの真理らしきものを信じ続ける...これは内心では迷っていることを示しているのでしょう?
重要なことは、自分にとって関心があるのなら、その対象に意識を向けたらいいのです。
これは感覚的なことなので、伝えることはとても難しいのですが、そうすると、何かそれが”重い、自分の内に鎮まるように感じてくるのです(ズシンとくる感じ?、”頷ける”かな?)。自分にとってです!
意識的になることとは、実存的なことと言ってもいいでしょう。
そのようにして、自分の実存的な認識は広く、深いものになってゆくのです。
そこで意識の光に照らされたことを通して、先の自由意志はあるか、とか私という個人は居るのかという問題でも、表層意識では自由と感じていたものとは別の、より深く感じられる自由意志なるものが感覚されたり、自分は表層で思っていた個的な在り方を超えたもののように感じて来たりするかもしれないのです。(それでもどう思い、感じるかは自由であるのに変わりは無いでしょうけど...)
こうしたことは、ほとんど”意識される”ことなく、”私はかく思い、感じるんだけどなあ”、という表層的意識の流れの内に隠れているのではないか?
より深く意識的になることで、このことは自覚的なものになるでしょう。
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意識が向くこと、向けられること

2023-10-25 09:43:45 | 意識、照明
ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりのように、私は例えば死後の世界や前世の実在性など、自分が直接見たり、感じたりするでもなく、ただ誰かが言っていることを鵜呑みにして、他に向けて伝えてしまうようなことはしないようにしています。
これは、よほど知性も主体性も無く、真のスピリチュアルな道にはほど遠い、その精神性も霊性も欠いた在り方と言わねばなりません。
言い換えると、それは意識的な在り方ではないということ...これを欠いた霊性の道などあり得ないと言っても過言ではありません。
だからと言って、これもご存知のように、私は死後の世界も前世も否定している訳ではありません。というより多くのスピ愛好家?と同様、関心があります。...いや、”自ずと向けられる”と言った方がいいかもしれない?...
神は六次元の存在だとか何とか、丸っきり観念に浮いたことなどには最初から関心は向きません。自ずと意識は向かわないのです。
関心がある、意識が向く...これが意識の世界では重要なポイントでしょう。
私が意識を向けるとか言った場合、多くそれは、”向けられる”ことと切り離されないものとして語っています。これは、そう、神に向けると言った場合に顕著に感じられることなのです。
私はこれまで何度この言葉を言い表して来たことか!...そして、その現臨感に与ることにより、神についての認識が広がり、深められていったのです。
”神という一語の中に、その超越的なものは勿論、私の実存、あらゆる他者、普遍的なものなどのことが一つに内包されている!”
これは、あの感じを通して言い表わせるものなのであって、それが抜けたら何を言ってるのか、サッパリ分からないでしょう(笑)
このように、あるものに意識を向けると、それまで漠然と思っていたものが、ある感じを伴って自分自身に直結したもののようにも認識されるようになるのです。そして、そこには実はそのあるものの方がこちらに向けさせているのかもしれないのです。
あなたは今、あるものに関心があるかもしれない。どうも気になってしょうがない。漠然と思っているだけ、ただの知的な興味だけなのかもしれない。
気になるのなら意識してみたらいいのです。それが浮いてすぐどっかへ行ってしまうのなら、”意識付け”されることは無いでしょう。
いやと言うよりも、あなたが意識を向けたなら、あるものの方があなたを引きつけているのかもしれないのです。最初から向いていたから関心があったのではないですか?
これは、精神的な道に限ったことではありませんが、多くの人は頭だけの知識が増えれば、何か精神的に見識が広がり、深くなったように錯覚するものです。
しかし、本当に精神性が豊かになることは、意識の拡大、深化に関わることであることに気付いていないようです。
それは頭デッカチが思っているような、魂の進化といったものとは何の関係も無いかも分かりません。
少なくとも私の意識はそっちへは向きません。その広がり、深まりをもたらすものに自ずと向けられるのです。
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能動性と受動性

2023-10-09 10:06:16 | 意識、照明
私がシツコイほど言っている、”○○に意識を向ける”、という表現は、どうも能動的に意思想念に働きかけることを連想されがちなので、不適当なようにも思えるのです。
これは、思い、為そうとする心的在り方からすれば、それを退けること、否退かしめるものにゆだねること、つまり受動的なことを言い表しているのです。
このことに関連して、ベルジャーエフは、著書「人間の運命」の中で、その哲学の根幹である「創造」と結び付けられる、能動的精神を高調する観点から、「現象学」で有名な哲学者、フッサールの受動的精神の在り方を批判していました。
実はフッサールの哲学は、私には難しく、読んでないのでよく分からないのですが、その該当部分の言葉、「我々がある対象を認識するためには、すべて人間的なものを断念し、全く受動的になって対象が我々に語りかけるのを待たなければならない」とあるのは、私にはとても肯けるものを感じ、ベルジャーエフの批判理由がよく分からないのです。
例えば、神を意識するということは、それが人間的なものの放棄かどうかはさて置き、先のように思念、意念が後退することを意味し、それと同時に思いを超えたハタラキに捉えられるようになるのです。
そして、ベルジャーエフの言う、創造的、能動的精神というものが、果たしてそれが思いを超えた世界の消息を伝えるものなのか、ということが曖昧に感じられるということなのです。
しかし私には、それはあまり本質的なこととは思っていません。
これは取りも直さず、ベルジャーエフの生きた時代(20世紀前半から中葉)には、まだ意識というものの究明が十分になされていなかったことに要因があるのでしょう。
ベルジャーエフは、随所で精神が霊なるものに開かれ、交わることを強調しています。否、我々の精神(SPIRIT)そのものが、その根底で霊性とつながっているとも。
これが思いを超えた世界の消息を物語っていると言えるのです。
それは同書で彼が「我々は、真の精神的勝利を”超意識“の領域ー則ち意識にあらず、まさに霊の領域において戦い取らなければならない」と明言しているところにも伺うことが出来ますが、同時にそれは、先の意思想念と意識の区別の曖昧さ、又彼の旺盛なる能動的精神の表れも見て取れるものです。
思考を超えた、所謂“純粋意識“の領域とは、ここでは超意識の領域とされているのです。
では、この純粋、超意識なるものとは能動性、受動性に分けて説明出来るものなのでしょうか?
私は、こういう分節的な表し方自体が不適当だと思います。
純粋意識は、自他は勿論、あらゆる相対性を超越したものだから!
精神の能動性、受動性といったことは、思い、為す自己からの観点に当てはまるものでしょう。
意志の後退、受動性とは、意識の能動的ハタラキを呼び覚ますことにつながりますが、意識そのものには、能動性も受動性もなく、それは自ずから在るものなのです。
この状態、霊性とつながることを目指す我々には、能動的精神も受動的精神もあるでしょう。
それは男性性と女性性に置き換えることも出来るかもしれません。
一人の人間は、勿論その両性を合わせ持つものでしょうが、どちらかに傾くことも勿論あります。
私は霊性により近いものは、女性的な受動的精神の方だと感じている点で、能動的精神をより強調するベルジャーエフとは異なっていますが、霊性に目覚めることを指向する精神には全く同調するものを感じているのは言うまでもありません。


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現実を受け入れるということ

2023-10-04 09:56:51 | 意識、照明
私はこれまで”現実を受け入れること”が如何に重要なことかについて、何度か言い表してきました。
これはしかし、例えば突然不幸な事態に見舞われて、そのことを受け入れる、というようなこととは直接関わるものではありません。
ツラいことは、どうしても受け入れることなど出来ませんものね?
無理に受け入れる必要はない。...私は自分にも出来ないようなことは言いません。
”いや、出来るも何も掴みようが無くて、何だか分からん!”、ということはあるかもしれませんが...ごもっとも。分からなくても、いや出来なくてもいいのです。私は現実を受け入れることなど出来ません!...は?!
出来ることは、受け入れようと、意識することです。
私はノイローゼのような精神的苦境に陥ったことがあります。
苦しくても、外には行きたがってたので、世に言う、”引きこもり”では無かったようですが、思いのがんじがらめの状態の苦しさは分かっているつもりです。
こんな状態の時、例えば”ネガティブなことを考えないで、明るいポジティブなことを考えるんだ!”、などという、アドバイスが如何に非現実的で、人の心に寄り添ったものでないかが知られるでしょう。
出来ないから、そういう現実を抱えているのですからね!
だけど、いつも頭の中を駆け巡り、又凝り固まっていることは、その現実に即したことじゃないですよ!
”こんなことになって人はどう思うだろう...いや、人がどう思うかということに囚われているから、こうなっているのだろう...何とかしなければ!、何とか出来ないからこうなっているのだ!”
しかし、今のこうなっている現実には、何かと言いたがる人間は居ません!、何とかしなければ、やらねば!、しかし出来ない...出来るであろう自分を思い描いて、やろうとする思いにかられるだけなのです。
出来なければ、出来ないでしょうがないではないか?
この場合、現実を受け入れるとは、このまんまの現実を受け入れるということです。現実に居ないどっかの誰かの声もなく、現実に出来ない自分のことでない、今の自分自身の現実のことです。
受けいれねばならないのでなくて、受け入れられないまんま、を!
私は何度も経験しているのです。その瞬間、思いのがんじがらめ状態から解放されるのを!
私はそうとは知らずに、そう...”思いを超えてハタラクあるもの”を受け入れていたのです。
否、苦境にある私自らはそうなりません。そうなさしめるものを受け入れていたのです。
否々、受け入れようとしただけなのです(いつもいつも言葉の言い回しに苦労します)。
それだけで、思いで密閉状態に隙間が生じ、そこからよみがえりの風が吹き込むようにも、あるいは光が差し込むようにも思いが溶かされて行くのを覚えたのです。
そこから先は、再び思いの閉塞状態に戻るかもしれないし、解放されたままかもしれません。私の場合(最後は30数年前)それをほとんど知ることもなく、意識もされてませんでしので、今のようには行きませんでしたが...
だけど、その思いを超えてなさしめるものに意識を向けることは、じっつに大きいことですよ!...これが何のこっちゃワカラン向きには、今の自分の現実を受け入れようと思い立ったらいいのです。
何しろ出来る、出来ないの問題でないから大きいのです!...何にも出来ない私にとっては!(やって出来ると思っている人間には絶対に分かるまい!)
だからだから、これは聞き飽きた言葉かもしれないが...

”あなたは一人じゃない!”...



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出来ること、意識すること

2023-10-02 09:59:00 | 意識、照明
ラマナ.マハルシに関する本、ネットの記事に触れていつも感じることがあります。
これは、ラマナ自身も講話などで言っていることですが、例えば”明け渡し”ということに関して「あなたは、完全に明け渡す必要があります。そうでなければ、自我が消滅することはないでしょう」などと説かれます。
それを受けて、あるブロガーなどは「その道は険しいですが、自我は完全に真我、神に明け渡さなければならないのです」などと書いたりしています。
しかし、完全に自己を明け渡すことの出来る、その境地に達する人など居るでしょうか?...勿論私には出来ません!
少しく、自分の現実に照らしてみたら分かることじゃありませんか?
ラマナの話というのも、かなり大雑把な感じを受けるのですが、一方では真我の実現はけっして達成したりするものではない、と言ったり、又この言葉は、修行者に努力することを喚起しているように受け取れますが、一方では、真我に目覚めるには何らの努力を必要としない、と述べていたりもするのです。
だからといって、何もしないでそういうことが”起こる”(私はそれが出来る、というよりはそうなるものと理解しています)ことは、当たり前ですが無いでしょう。
思い、為そうとする自分から、自己を超えたものに明け渡すことは出来ない!...しかし、そう意識することは可能なのです。というか、我々が出来ることというのは、それしか無いのではないか?
いや、私は意識することが出来る...これ自体も本当には...
いつも言うように、意識することは能動的に思考を働かしたり、念を強めることとは違います。
取っ掛かりとして、そのように能動的に意志するということはあります。
しかし、そこに意志想念を超えて、他動的に、あるいは自動的にそのように意識的にさせるものを感じたなら...これが肝、アクメなんだ!
思い、意志想念を超えて、それ以前からその根底にあってハタラクものが、意識というものなのであり、いつも書いてて、自然とそうなるように、意識することというのは、”意識される”ことと一つのものなのです。
そこでは、出来る、出来ないということは問題ではありません。純粋意識の状態になる必要もありません(言葉の言い回しに留意を!)。やって出来る人など居ないだろうけど...
これは、少しく考えてみたら分かることでしょ!、明け渡し、全託の境地に自らなれる人など誰も居ないのですよ!
では、その真我実現に立ちはだかる、自我というものはどういうものなのか?、それは正に、”自分は明け渡しが出来る、達成出来る”という思いの中に示されるのではないでしょうか?
自然に”意識的な状態”になるには、やはり相応の意志的な努力も必要でしょう。それは、常に意識することを心掛けることかもしれません。
しかし、それは常にその裏側では、”意識されること”と切り離されてはいないのです!...
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