人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識的になることと祈り

2024-03-01 09:33:45 | 意識、照明
瞑想修行などでは、今でも例えば呼吸に意識を集中するとか、“集中しよう、しなきゃあ“、と自分が意思して集中するやり方が主流のようです。
私がいつも言っているものは、修行と結び付けられるものではないですが、自分の思いを超えた神的なものに意識を向けると、自ずから“意識は集中される“、ということなのですね。
何が違うかと言うと、思い、為そうとする自分が起点となり、主導となるか、神的なハタラキがそうなるかというところにあります。
勿論、取っ掛かりとして、“向けよう“と意識するというのはあるのですが、ほとんどそれは意識されることと区別されないくらい、直接的なものなのです。
直接的というのは、思い、為そうとする自分を超えて、その意図するもの、目的となるものと一つになるということで...つまりは思いを超えてしまった(そのための瞑想修行なのでは?)、ということな訳で...!!!
我ながら驚くべきことを言っているようなのであります!
そして又瞑想などによって、幸福、平安に与ろうとしているのですよね?
え~とねえ...もう与っちゃってますよ!...いや、もう重ね重ね驚いちゃいますよ!
いつもいつも、こういうことを平然と書いていられるのは、自分がどうこうやる何かによってそうなるものじゃないからなのです。
意識を向ける、意識的になることの大切さをここで何度も言っています。
しかし、改めて思うに、当たり前のことかもしれませんが、思い、為そうとする自分からは中々そうなれないのですね。
そうなっちゃうのが当たり前みたいに感じているから気が付かないのでしょう?
要するに、私が意識を向ける、意識的になることに先立つものがあるということなのです。
そうでなきゃ、そもそも向けられません!
だから、いつも言っているか、言わされているのです。幸福、平安に与ることに特別な方法など無いけれど、どうしても一つ祈るということはあるんだ、と!...
祈るということは、自分を超えたものあっての私、ということにいつも気付いていることでもあります。
そうでなきゃ、私など当たり前でない当たり前のことの上に胡坐をかいたりして、ロクな人生を歩んでないと思いますよ!(これはですね、多分思っているほど幸福、平安に感じられなくなるといということなんですよ!)
そうなのです!...意識的になることと祈りとは切り離されないものなのです。
今まで、ただ祈りとは漠然と神仏を対象にして、願いごとをすることだと思っていたことにもっと意識を向けてみるのです。
自分にとって、神仏とは、自分を超えたものとは何か?...考えるのでなしに意識を向けてみる...
やっぱり、これは祈ることと一つにならざるを得ません!...
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夢想と現実

2024-01-25 10:02:58 | 意識、照明
ありのままの自分を受け入れることの大切さについては何度も触れてきました。
もし、精神的な道というものが神の道、神と一つになる道というのなら、そのことを抜きにしてはあり得ない、そこからしか何も開かれないと言っても過言ではないでしょう。
しかし、私のチョイと知ってる人間でも、ありのままでない、修行か何かで、思われた自分を段々高め、進歩させて行き、又現実にはそうなっていないのに、自分は高みに達したものと夢想したがる向きもあるのです。
そして、:“取り越し苦労はいけません!“などと言ってる端から、ワクチンは有害だとか、マスコミはその事実を隠蔽しているとか、それが定住地であるように、いつもの真偽の分からない妄想世界から抜けることが出来ないでいるのです。
それがこの御仁のありのままの姿なのでしょう?
当人は、ゼッタイに認めようとしないでしょうが...何十年も修行し続けていて、そんなザマでいることなど!
“何にも見えていないのに、見えていると言い張るところに罪がある!“
...って、別に罪って訳でもないですよ。(多分、罪の意識が見えなくさせているのでしょう?)
不確かな情報を拡散し続けるのはどうかと思いますが、いつまでも同じところをグルグル回り続けているのが悪い訳じゃないですよ!...本人の生き方の問題でしょう。第一いくら自分の思い、努力に頼っていてもそれで神の道が開かれる訳でもありません。
ただここでは、それはありのままの自分の現実を受け入れることで開かれる、とそう言っているのです。
それは、かくある自分を夢想したり、誤魔化さないことです。そうして初めてありのままの自分を投げ出すことが出来る、ゆだねることが出来る(これは、出来る、出来ないという問題じゃありませんが)...何に?...そう、思いを超えたもの、神に!
私は若い頃から思い煩いの苦境にある時など、何回かこういう経験をしているのです。その頃は特に神的なものを意識していた訳では無いのですが、思いを超えたところから来るという本質は同じです。思いがけないことなのです。
そして、いつの間にか、その思いのがんじがらめが解かれて、その隙間に新しい、何とも快い風が吹き込むようにも、ラクーな、幸福な気分に変わってしまったのでした。
現実の自分は、絶望感に苛まれたミジメな自分...それが自分の本当の姿などとは認めたく無いのです。
だけど、その自分に思いを超えたところから光が差し込んでいるようではないか?!...この現実を受け入れざるを得ない!
つまりは、本当の自分とは、かくあれかしと思う自分のことではなく、何らの誤魔化しの無い、そこに光が当てられ、照らされている自分でなくて何であろう!...真我が何かは分からないが、少なくともそこに仄かに映し出されているのではないか?
ありのままの自分を受け入れることは、私の若い頃のように、精神的な苦境になければ、そうならないというものではないでしょう。
ただ、神は自分を欺き、誤魔化すことなく、ありのままの自分を受け入れようとする人間を放っとかないでしょう。
...いやもう、意識すれば、その“お照らし“は常にあるのではないか!
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在らしめられるままに受け入れる

2023-12-06 09:06:50 | 意識、照明
私が書いていることは、これまでそうと知らずに感じていたことというのが多いのです。
神的なものの臨在というものは、全心身がジンジンしてくる感じがあってすぐ分かります。
ところが、それ自体到底一言で言えないことなので(何しろ全心身的なことなのですから!)、別の感じ方があるということに気が付かないようなのです。
その一つが私が“照明“と呼んでいる、“思いを超えて、私のすべてが照らし出されている感じ“です。
精神的な道では、ありのままの自分を受け入れることが如何に重要なことか、ということは何度も言ってきました。そこからしか何も始まらないと言っても過言ではないのです。
おやっ?、そういうことは昨日書いたばかりではなかったかしら?
そう、だからそれは、祈り、瞑想の元となるものと一つのものなのです!
しかしですねえ、これって言うのは、もう祈りも瞑想も超えちゃってるようなことなんですよ!
とにかく、受けるだけなんですから!...照らされるままに、在らしめられるままに...
これは、受けなければ、ありのままを受け入れなければならない、と言っているんじゃないですよ。それは、思い、為そうとする人間が“やっていること“なんです。
ありのままの自分を見なければならない、とか観察しなければならないとか...
私にはそんなん、でけまへん!...在らしめるものを受け入れるだけ!...って、もう、受け入れられちゃっているんです!、私のすべてを!
それは、自分の正しき、善なるもの、光っているところだけを受け入れるのではありません!
それは、そう思いたい自分が“思って、やっていること“なんです。
“真我は善なるもの、完全なるもの、それにもとっているものは、自我だ、偽我だ“、なんて、何で思っているだけの自分にそんなことが分かるのか?
照らされるまま、在らしめられることに真も偽も無いのです!...それを言うのなら、その光に照らされないものは、すべて偽り、幻想だと言うことでしょう!
その光に覆いをかけ、ありのままを見えなくしているものは何ものだ?!
そして、照らされるまま、在らしめられるままのことは、すべて善なるものに決まっているではないか?!
何故ならば、そこに愛、安らぎがあるから!
だから...これはもう、思いを超えたものを受け入れること...それに尽きるのです!
我ながら、こういうことをいつも書かしめられている自分が幸福に感じてなりません!
これでいいのか?...“いいに決まってるだろ!“(←誰?)
今はすべてを照らし、映し出す光がますます強くなって来ている、そういう時なのでしょう!...

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意識的であることの重み

2023-10-27 01:41:42 | 意識、照明
所謂ノンデュアリティの道では、今でも”人間には自由意志などない”、という教えが説かれ、信じられているようです。
自由意志はあるのか、どうか?...どう思い、感じようとあなたや私の自由じゃないですか?
その他、定番の”あなたという個人は存在しない”、という教えでも同様です。
”それは、量子力学でも証明されているのです”、などと鬼の首を取ったようなことを言われても!...
そこでは、あなたが現実にどう思い、感じているか、というもっとも肝心なことに意識が向けられていないのです。
これでは、非二元の教えが如何に高尚(?)なものだろうと、”○○先生があなたの前世は、誰々だ”、と言ったことを無批判に、短絡的に信じ込むようなフニャけた精神と何ら変わらないですよ!
あなた自身の内なる精神は、易々と他人に売り渡してしまうほど軽いものなのですか?
だからと言って、私は(今の時点で)あなたが思い、感じたものだけが真実だ”、などと言うつもりはありませんよ!
だってあなたが思い、感じていることって、思いに固執した信念のようなものでなければ刻々変わるものでしょ!
要するに、決め付けた、固定された見解に囚われることが問題なのです。
そして、ノンデュアリティの道で強く忌み嫌われている?、思考マインドというのは、すぐ決め付けたがるのです。
思う方はともかく、現実に感じていることとズレが生じても、その借(仮)りの真理らしきものを信じ続ける...これは内心では迷っていることを示しているのでしょう?
重要なことは、自分にとって関心があるのなら、その対象に意識を向けたらいいのです。
これは感覚的なことなので、伝えることはとても難しいのですが、そうすると、何かそれが”重い、自分の内に鎮まるように感じてくるのです(ズシンとくる感じ?、”頷ける”かな?)。自分にとってです!
意識的になることとは、実存的なことと言ってもいいでしょう。
そのようにして、自分の実存的な認識は広く、深いものになってゆくのです。
そこで意識の光に照らされたことを通して、先の自由意志はあるか、とか私という個人は居るのかという問題でも、表層意識では自由と感じていたものとは別の、より深く感じられる自由意志なるものが感覚されたり、自分は表層で思っていた個的な在り方を超えたもののように感じて来たりするかもしれないのです。(それでもどう思い、感じるかは自由であるのに変わりは無いでしょうけど...)
こうしたことは、ほとんど”意識される”ことなく、”私はかく思い、感じるんだけどなあ”、という表層的意識の流れの内に隠れているのではないか?
より深く意識的になることで、このことは自覚的なものになるでしょう。
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意識が向くこと、向けられること

2023-10-25 09:43:45 | 意識、照明
ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりのように、私は例えば死後の世界や前世の実在性など、自分が直接見たり、感じたりするでもなく、ただ誰かが言っていることを鵜呑みにして、他に向けて伝えてしまうようなことはしないようにしています。
これは、よほど知性も主体性も無く、真のスピリチュアルな道にはほど遠い、その精神性も霊性も欠いた在り方と言わねばなりません。
言い換えると、それは意識的な在り方ではないということ...これを欠いた霊性の道などあり得ないと言っても過言ではありません。
だからと言って、これもご存知のように、私は死後の世界も前世も否定している訳ではありません。というより多くのスピ愛好家?と同様、関心があります。...いや、”自ずと向けられる”と言った方がいいかもしれない?...
神は六次元の存在だとか何とか、丸っきり観念に浮いたことなどには最初から関心は向きません。自ずと意識は向かわないのです。
関心がある、意識が向く...これが意識の世界では重要なポイントでしょう。
私が意識を向けるとか言った場合、多くそれは、”向けられる”ことと切り離されないものとして語っています。これは、そう、神に向けると言った場合に顕著に感じられることなのです。
私はこれまで何度この言葉を言い表して来たことか!...そして、その現臨感に与ることにより、神についての認識が広がり、深められていったのです。
”神という一語の中に、その超越的なものは勿論、私の実存、あらゆる他者、普遍的なものなどのことが一つに内包されている!”
これは、あの感じを通して言い表わせるものなのであって、それが抜けたら何を言ってるのか、サッパリ分からないでしょう(笑)
このように、あるものに意識を向けると、それまで漠然と思っていたものが、ある感じを伴って自分自身に直結したもののようにも認識されるようになるのです。そして、そこには実はそのあるものの方がこちらに向けさせているのかもしれないのです。
あなたは今、あるものに関心があるかもしれない。どうも気になってしょうがない。漠然と思っているだけ、ただの知的な興味だけなのかもしれない。
気になるのなら意識してみたらいいのです。それが浮いてすぐどっかへ行ってしまうのなら、”意識付け”されることは無いでしょう。
いやと言うよりも、あなたが意識を向けたなら、あるものの方があなたを引きつけているのかもしれないのです。最初から向いていたから関心があったのではないですか?
これは、精神的な道に限ったことではありませんが、多くの人は頭だけの知識が増えれば、何か精神的に見識が広がり、深くなったように錯覚するものです。
しかし、本当に精神性が豊かになることは、意識の拡大、深化に関わることであることに気付いていないようです。
それは頭デッカチが思っているような、魂の進化といったものとは何の関係も無いかも分かりません。
少なくとも私の意識はそっちへは向きません。その広がり、深まりをもたらすものに自ずと向けられるのです。
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