人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と自分は分けることが出来ない!

2024-03-23 09:18:59 | 意識、照明
五木寛之先生の「他力」などの本を読んでいて、“実にその通りだなあ“、と共感させられることが多いのです。
「自分を信じ、自分を愛することから始めるしかないのではないか」
「今の自分はみっともないかもしれないけれど、それをそのまま肯定し、受け入れてみてはどうでしょうか」
然り。ありのままの自分を受け入れる...しかし、人間の自我心は、それが出来ないというのも事実でしょう。
今のダメな、悪い自分を受け入れられないから、正しい、進んだ自分になろうと、そういう境地に到達しようとする...そして、常にそういう自分を周囲にアッピールし続けなければならないのです。つまり自分自身を認めるのでなく、人に認めてもらおうとする訳ですね。
だから、本当は、そういう思いを超えたもの無しにはそうならないとも言えるのです。
これは、自分を信じ、愛し、受け入れることは、神的なものを信じ、愛し、受け入れることと一つということでしょう。
しかし、本当にホントーのことは、信じ、受け入れるも何も、私が“照明“と呼んでいる、常にそういう自分の思いを超えた光に照らされるままに、映し出されるままになっているのです。
だから、ホントはそれを受け入れるしかありません。
これを何かの裁きみたいなものと捉えるか、本当の救いと捉えるかで人生は、天と地ほどの開きがあるように感じられてしまうでしょう。
救い?...だってそうでしょう?...これまでどれだけ、世間の目、人の目を気にしながら、戦々恐々とした気持ちで生きて来たのか、どれだけ自分を周囲に取り繕うことばかりして来たというのでしょうか?
ありのままの“真の“自分で無しに、偽りの自分でいなきゃならなかったのです。
こういうことから、今も毎日のように、自ら命を絶つ人は後を絶たないのです。もうそういう神経症のような精神状態から解放されるのですよ!
神の目は常に光っている、あなたはすべて照らされ、見透かされている!...それ自体あなたに何のお咎めが、苦しみがもたらされると言うのでしょうか?
死んで、地獄に落とされるとでも!...地獄というものは、神を、自分を受け入れない自我心が創造(想像)したものではありませんか?
現実に無いものを思い描いてないで、現存、現臨するものを受け入れてみられよ!...そこにあるのは、生かされているという実感、愛、安らぎといったものばかりではないか?
これが、許されていることでなくて何であろうか?!
これを裁きと取ってしまうあなたは、神を信じ、愛し、受け入れ、そして許してなどいないのです!
神の目はあなたのすべてを明るみに出す...あなたのこれまでの罪を?
こういう神のイメージこそは、世間というアダなる神が作り出したものだということを知らなければなりません。
本当のことを知りたければ、そういう刷り込み、予見からで無しに真っすぐに神を、自分を受け入れてみたらいいでしょう。
これは、真我に目覚めることと同じことです!
神のことも自分のことも分けることなど出来ないのだから!...




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意識が顕わになるとは?

2024-03-10 10:18:30 | 意識、照明
私は今でこそ、“意識次元が開かれる“とか偉そうなこと言っていますが、初めて自分がそんなことになった時は、言葉が見つからず、どう表現していいか分からなかったのです。
思考次元が超えられたそこに意識次元がある、ということなのですが、慣用されていなかったためか、昔の人はあまり意識云々という表現はしていません。
五井先生でもそうですね。“思いというのは、消えてゆく姿だ“、と言われますが、消えたそこに顕わになるのが意識の領域だ、ということは伝わるのです。
又宗教の本筋は、本心を開発することにあるのだ、とよく言われていました。意識次元こそは本心の鎮まるところなのですよ!...
しかしながらそれは、心とか精神など思考次元とあまり区別されることの無い曖昧な括りで語られ、そして多くは本来超えられているものである、意志想念と混同して使われていたようです。
今日のように、意識のことが一般概念として定着するようになったのは、何と言ってもユングなどの心理学、取り分けその後進である、トランスパーソナル心理学に負うところが大きいと言っていいでしょう。
つまりは、ようやく1970年代の終わりくらいからということなんだ!...かくも人間の在り方の根本にあるものが、如何に蔑ろにされてきたかが分かります。
日本ではも少し後で、ちょうど私がケン.ウィルバーの「意識のスペクトル」(春秋社刊)という本を読んで、“ああ、イエスもブッダもラマナ.マハルシもベルジャーエフもこれにアクセスし、これを究明しようとしていたんだなあ“、との思いがもたげていた85年の春頃から、頻繁に意識云々というワードを見聞きするようになりました。
要するに、言葉の上で私の意識次元が開かれたのは、その頃だったということなのです。
捉えどころの無い(というか捉えようとしている私自身を基底しているものだから当たり前のことなのですが”)、意識世界にもある輪郭が与えられるようになったのです。
言い方を換えれば、如何にも心理学的な言い回しで、意識の表層と深層がつながるようになった、ということなのでしょうが...私には、心理学の発達ということだけでは説明出来ないものがそこに働いているように感じてなりません。
それは、これまで隠されていた意識次元の方が表に顕わになってきたということ...本心の、神の扉が開き始めた、ということなのではあるまいか?
私に初めて、言葉の上でなくその少し前、実体験として、目の当たりに感じたことは正にそういうことだったのです。
ただ、それは全く形も方向性ももたないカオスに包まれていて、いつ精神のバランスが崩れるか分からない危機的なものと隣り合わせのものだったのです。
このように、実体験の伴わない言葉、概念理解だけでは、抽象観念に留まってしまいますが、形も方向性も無かったら...そう、こうして書き表すことなど出来ないのです!
顕わになるから表せる次第な訳で!...
今日、両方相まって、意識次元が開かれる、その時を迎えているのをヒシヒシと感じずにおれません。


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意識的になることと祈り

2024-03-01 09:33:45 | 意識、照明
瞑想修行などでは、今でも例えば呼吸に意識を集中するとか、“集中しよう、しなきゃあ“、と自分が意思して集中するやり方が主流のようです。
私がいつも言っているものは、修行と結び付けられるものではないですが、自分の思いを超えた神的なものに意識を向けると、自ずから“意識は集中される“、ということなのですね。
何が違うかと言うと、思い、為そうとする自分が起点となり、主導となるか、神的なハタラキがそうなるかというところにあります。
勿論、取っ掛かりとして、“向けよう“と意識するというのはあるのですが、ほとんどそれは意識されることと区別されないくらい、直接的なものなのです。
直接的というのは、思い、為そうとする自分を超えて、その意図するもの、目的となるものと一つになるということで...つまりは思いを超えてしまった(そのための瞑想修行なのでは?)、ということな訳で...!!!
我ながら驚くべきことを言っているようなのであります!
そして又瞑想などによって、幸福、平安に与ろうとしているのですよね?
え~とねえ...もう与っちゃってますよ!...いや、もう重ね重ね驚いちゃいますよ!
いつもいつも、こういうことを平然と書いていられるのは、自分がどうこうやる何かによってそうなるものじゃないからなのです。
意識を向ける、意識的になることの大切さをここで何度も言っています。
しかし、改めて思うに、当たり前のことかもしれませんが、思い、為そうとする自分からは中々そうなれないのですね。
そうなっちゃうのが当たり前みたいに感じているから気が付かないのでしょう?
要するに、私が意識を向ける、意識的になることに先立つものがあるということなのです。
そうでなきゃ、そもそも向けられません!
だから、いつも言っているか、言わされているのです。幸福、平安に与ることに特別な方法など無いけれど、どうしても一つ祈るということはあるんだ、と!...
祈るということは、自分を超えたものあっての私、ということにいつも気付いていることでもあります。
そうでなきゃ、私など当たり前でない当たり前のことの上に胡坐をかいたりして、ロクな人生を歩んでないと思いますよ!(これはですね、多分思っているほど幸福、平安に感じられなくなるといということなんですよ!)
そうなのです!...意識的になることと祈りとは切り離されないものなのです。
今まで、ただ祈りとは漠然と神仏を対象にして、願いごとをすることだと思っていたことにもっと意識を向けてみるのです。
自分にとって、神仏とは、自分を超えたものとは何か?...考えるのでなしに意識を向けてみる...
やっぱり、これは祈ることと一つにならざるを得ません!...
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夢想と現実

2024-01-25 10:02:58 | 意識、照明
ありのままの自分を受け入れることの大切さについては何度も触れてきました。
もし、精神的な道というものが神の道、神と一つになる道というのなら、そのことを抜きにしてはあり得ない、そこからしか何も開かれないと言っても過言ではないでしょう。
しかし、私のチョイと知ってる人間でも、ありのままでない、修行か何かで、思われた自分を段々高め、進歩させて行き、又現実にはそうなっていないのに、自分は高みに達したものと夢想したがる向きもあるのです。
そして、:“取り越し苦労はいけません!“などと言ってる端から、ワクチンは有害だとか、マスコミはその事実を隠蔽しているとか、それが定住地であるように、いつもの真偽の分からない妄想世界から抜けることが出来ないでいるのです。
それがこの御仁のありのままの姿なのでしょう?
当人は、ゼッタイに認めようとしないでしょうが...何十年も修行し続けていて、そんなザマでいることなど!
“何にも見えていないのに、見えていると言い張るところに罪がある!“
...って、別に罪って訳でもないですよ。(多分、罪の意識が見えなくさせているのでしょう?)
不確かな情報を拡散し続けるのはどうかと思いますが、いつまでも同じところをグルグル回り続けているのが悪い訳じゃないですよ!...本人の生き方の問題でしょう。第一いくら自分の思い、努力に頼っていてもそれで神の道が開かれる訳でもありません。
ただここでは、それはありのままの自分の現実を受け入れることで開かれる、とそう言っているのです。
それは、かくある自分を夢想したり、誤魔化さないことです。そうして初めてありのままの自分を投げ出すことが出来る、ゆだねることが出来る(これは、出来る、出来ないという問題じゃありませんが)...何に?...そう、思いを超えたもの、神に!
私は若い頃から思い煩いの苦境にある時など、何回かこういう経験をしているのです。その頃は特に神的なものを意識していた訳では無いのですが、思いを超えたところから来るという本質は同じです。思いがけないことなのです。
そして、いつの間にか、その思いのがんじがらめが解かれて、その隙間に新しい、何とも快い風が吹き込むようにも、ラクーな、幸福な気分に変わってしまったのでした。
現実の自分は、絶望感に苛まれたミジメな自分...それが自分の本当の姿などとは認めたく無いのです。
だけど、その自分に思いを超えたところから光が差し込んでいるようではないか?!...この現実を受け入れざるを得ない!
つまりは、本当の自分とは、かくあれかしと思う自分のことではなく、何らの誤魔化しの無い、そこに光が当てられ、照らされている自分でなくて何であろう!...真我が何かは分からないが、少なくともそこに仄かに映し出されているのではないか?
ありのままの自分を受け入れることは、私の若い頃のように、精神的な苦境になければ、そうならないというものではないでしょう。
ただ、神は自分を欺き、誤魔化すことなく、ありのままの自分を受け入れようとする人間を放っとかないでしょう。
...いやもう、意識すれば、その“お照らし“は常にあるのではないか!
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在らしめられるままに受け入れる

2023-12-06 09:06:50 | 意識、照明
私が書いていることは、これまでそうと知らずに感じていたことというのが多いのです。
神的なものの臨在というものは、全心身がジンジンしてくる感じがあってすぐ分かります。
ところが、それ自体到底一言で言えないことなので(何しろ全心身的なことなのですから!)、別の感じ方があるということに気が付かないようなのです。
その一つが私が“照明“と呼んでいる、“思いを超えて、私のすべてが照らし出されている感じ“です。
精神的な道では、ありのままの自分を受け入れることが如何に重要なことか、ということは何度も言ってきました。そこからしか何も始まらないと言っても過言ではないのです。
おやっ?、そういうことは昨日書いたばかりではなかったかしら?
そう、だからそれは、祈り、瞑想の元となるものと一つのものなのです!
しかしですねえ、これって言うのは、もう祈りも瞑想も超えちゃってるようなことなんですよ!
とにかく、受けるだけなんですから!...照らされるままに、在らしめられるままに...
これは、受けなければ、ありのままを受け入れなければならない、と言っているんじゃないですよ。それは、思い、為そうとする人間が“やっていること“なんです。
ありのままの自分を見なければならない、とか観察しなければならないとか...
私にはそんなん、でけまへん!...在らしめるものを受け入れるだけ!...って、もう、受け入れられちゃっているんです!、私のすべてを!
それは、自分の正しき、善なるもの、光っているところだけを受け入れるのではありません!
それは、そう思いたい自分が“思って、やっていること“なんです。
“真我は善なるもの、完全なるもの、それにもとっているものは、自我だ、偽我だ“、なんて、何で思っているだけの自分にそんなことが分かるのか?
照らされるまま、在らしめられることに真も偽も無いのです!...それを言うのなら、その光に照らされないものは、すべて偽り、幻想だと言うことでしょう!
その光に覆いをかけ、ありのままを見えなくしているものは何ものだ?!
そして、照らされるまま、在らしめられるままのことは、すべて善なるものに決まっているではないか?!
何故ならば、そこに愛、安らぎがあるから!
だから...これはもう、思いを超えたものを受け入れること...それに尽きるのです!
我ながら、こういうことをいつも書かしめられている自分が幸福に感じてなりません!
これでいいのか?...“いいに決まってるだろ!“(←誰?)
今はすべてを照らし、映し出す光がますます強くなって来ている、そういう時なのでしょう!...

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