“私は、神代の昔色いこと、エロいことに走って、政事をほったらかしにして、神の世界の秩序を乱した悪神、アマワカヒコの末裔である。
一コの私が悪事を悔い改めて、改心しようとしたところで連綿と悪の血筋を引いている身の上のこと、すぐに又その血流に任せてしまい、ちょっとやそっとで改まることは出来ない始末なのである“
な~んて神代のことなど覚えちゃいませんが、そういう風なこともどっかで身に覚えている感じはあるのです。
何かをやらかしてしまう...反省はしますよ、一応は。だけど、いくら悪いことを改めようと思ってもそんな具合になるなんてことは、イヤというほど味わっているのです。自分で変えよう、変わろうと思ったってね...
いや、そんなことよりやらかしてしまった時は、反省心などどこへやら、それが発覚しないように隠ぺいしたり、見つかっちまったらそれから逃げる、誤魔化すことに駆り立てられてしまうのです。
要するに、ほっこん(本根)からの反省、改心など出来ないのです。だからワルい、愚かなことを何回も繰り返してしまうのです。
バレなきゃあいい、バレたら逃げりゃあいい!...この世の法事の仕組みというものがそれに合わせて作られているのではないか?...道理でいつまでも悪事は無くならず、蔓延り続けるのです。
この悪の世とはそういうものなのではないか?...(しかしねえ...本当にワルいヤツがこんなこと書きますかねえ?)
そうなんです。いくら悪いことを反省しても、悔い改めようとしても、神代、過去世の因縁があるためかそうならないのです。自分からは。
だからもう、祈るしかないですよ。祈り心はあるのか、祈ることは出来る。いやそれしか無いのかもしれない...
そうすると、いつの間にかそういう呪われた心的状態に光が差し込むようになるのです。
それは、悪いことを自分で改め、変えようということではありません。そういう状態よりももっと高次の、自ずと高められるものが示され、そこから離れられ、開かれるようになるようなことです。
有り体に言えば、あの悪しき快楽、我が身の保全本能に支配されているような心的状態から、全く質の異なる幸福...そう、愛、安らぎの感じられる方に意識が向け変えられる、転じられてしまうのです。
福音書には、「汝ら、悔い改めて福音に、神の国に転ぜよ」とあります。ここでの、悔い改めと言われるものの本質的なものはそういうものでしょう。
(聖書の説教じゃないですけど)福音とは善き音信のことです。何が善きことなのか?...悪と相対するような善なのでしょうか?...それではいつまで経っても我々の心は善と悪の間を行ったり来たりするだけでしょう?
それは、相対に絶して我々を幸福な方に高めるから、絶対的に善きことなのではないでしょうか?
それは、思い、為そうとする我々だけからは絶対に来ません。思いを超えた、神的なものからもたらされるのは言うまでもありません。
だからだから、我々が失ったものが如何に大きいものか!、ということなのです。そう、失ってしまったのです!...
しかし、失ってしまったということは、本来は持っていたということなのですよ。回復されるということはあるのです。
これからそれを我々が開発したり獲得するものじゃないのです。失ったものというのは、その幸福なもの、善なるものというよりも、我々の神とのつながりのことでしょう。
我々からその回復を求めようにも、過去連綿からつながる悪因縁がそうさせてはくれないでしょう。
しかし、神の方が我々とつながるべく、顕わになって来るのを私は身に覚えずにおれません。
善きことは、祈り望めば、きっとあちらから臨んで来るでしょう!...
一コの私が悪事を悔い改めて、改心しようとしたところで連綿と悪の血筋を引いている身の上のこと、すぐに又その血流に任せてしまい、ちょっとやそっとで改まることは出来ない始末なのである“
な~んて神代のことなど覚えちゃいませんが、そういう風なこともどっかで身に覚えている感じはあるのです。
何かをやらかしてしまう...反省はしますよ、一応は。だけど、いくら悪いことを改めようと思ってもそんな具合になるなんてことは、イヤというほど味わっているのです。自分で変えよう、変わろうと思ったってね...
いや、そんなことよりやらかしてしまった時は、反省心などどこへやら、それが発覚しないように隠ぺいしたり、見つかっちまったらそれから逃げる、誤魔化すことに駆り立てられてしまうのです。
要するに、ほっこん(本根)からの反省、改心など出来ないのです。だからワルい、愚かなことを何回も繰り返してしまうのです。
バレなきゃあいい、バレたら逃げりゃあいい!...この世の法事の仕組みというものがそれに合わせて作られているのではないか?...道理でいつまでも悪事は無くならず、蔓延り続けるのです。
この悪の世とはそういうものなのではないか?...(しかしねえ...本当にワルいヤツがこんなこと書きますかねえ?)
そうなんです。いくら悪いことを反省しても、悔い改めようとしても、神代、過去世の因縁があるためかそうならないのです。自分からは。
だからもう、祈るしかないですよ。祈り心はあるのか、祈ることは出来る。いやそれしか無いのかもしれない...
そうすると、いつの間にかそういう呪われた心的状態に光が差し込むようになるのです。
それは、悪いことを自分で改め、変えようということではありません。そういう状態よりももっと高次の、自ずと高められるものが示され、そこから離れられ、開かれるようになるようなことです。
有り体に言えば、あの悪しき快楽、我が身の保全本能に支配されているような心的状態から、全く質の異なる幸福...そう、愛、安らぎの感じられる方に意識が向け変えられる、転じられてしまうのです。
福音書には、「汝ら、悔い改めて福音に、神の国に転ぜよ」とあります。ここでの、悔い改めと言われるものの本質的なものはそういうものでしょう。
(聖書の説教じゃないですけど)福音とは善き音信のことです。何が善きことなのか?...悪と相対するような善なのでしょうか?...それではいつまで経っても我々の心は善と悪の間を行ったり来たりするだけでしょう?
それは、相対に絶して我々を幸福な方に高めるから、絶対的に善きことなのではないでしょうか?
それは、思い、為そうとする我々だけからは絶対に来ません。思いを超えた、神的なものからもたらされるのは言うまでもありません。
だからだから、我々が失ったものが如何に大きいものか!、ということなのです。そう、失ってしまったのです!...
しかし、失ってしまったということは、本来は持っていたということなのですよ。回復されるということはあるのです。
これからそれを我々が開発したり獲得するものじゃないのです。失ったものというのは、その幸福なもの、善なるものというよりも、我々の神とのつながりのことでしょう。
我々からその回復を求めようにも、過去連綿からつながる悪因縁がそうさせてはくれないでしょう。
しかし、神の方が我々とつながるべく、顕わになって来るのを私は身に覚えずにおれません。
善きことは、祈り望めば、きっとあちらから臨んで来るでしょう!...
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