人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

顕われ、開かれ、なったもの

2024-08-25 09:45:53 | 
大調和協会で聖典とされる、通称「三千冊(その由来はこの数を冊したということから)~大調和世界開顕之聖業発祥」には、例えば...「今 人類の上に、その人類が、有史以来 未だ 嘗て、無きところの、否、古今未曾有の、”一大祥事”は、事...肇めいたしたのでございます」...
というように、どエライ、大変なことが始まったらしいことを告げる言葉が何度も出て来るのですが、その核となるであろう、大調和世界観なるもの、大聖業(おおみわざ)という大作用(おハタラキ)についての表現はあるものの、それは果たして如何なるものなのか、どういう経緯で出顕したのか、ということは、どこを紐解いても出て来ないのです。
これでは、まるで「ほら、あれがスカイツリーだ!、どエライものだ!、あそこへ行くんだ!」と言っているようなもので、どこをどう行ったらそこへ出られるのかは分からないのです。
しかしですね...考えてみれば、これは私がここでずっと言ってきたこととあまり変わらないようでもあります。
と、とにかくですね、顕われた、臨んだ、開かれたんであります!...突如、視界にスカイツリーが顕われたようなものか?
何が?...って、神的なものが!...それは何かって...だからそれは私の思いを超えたもなんだからワカラン!
それは、そんなに大変な、喜ばしきものなのか?...って、あったりめえではないか!
歓喜、カンキ、幸福、愛、平安、リアリティ...そういうものしか無い!
それは、断じて私が長年の信仰、修行などを通して獲得したり、到達したものなんかでは無い!...それだったら私が思い、為した結果ということになるではないか?、それは元々そうなっているものなんだ!
それは、だから全くそれらを超えたものだから、それが一体何なのか、何でそうなるかは分からなくて当然ではないか!
そして、そうして開かれた、与ったものは、受け入れるしかない!...私はそれに与る資格は無い、と言ったって、出て来ちゃった、顕われた、受けちゃったものは、仕方ないではありませんか!
神がここに顕われた!、臨んだ!...神...神ったこととはそういうことなのでしょう?
それは、あの本に書かれている”おおみわざ”と同じものなのか?...そうでしょう?、知らんけど...だから、それは何なのかは分からないんだってば!
何の宗教では、何の神が、仏が、ハタラキが...それとその大調和協会という名の知れない一団体に顕われた大聖業とどう違うのか?...何てこた、私にはまるで分かりゃしません!、分かったタメシが無い!、分かろうという気もさらさら無い!、現実にそんな気などどっからも起こってきやしません!
何でかと言うたら...私の思いを全く超えたものだからですよ!
その上で、あ~たら、こ~たらいうのは、ただの屁理屈のようにしか聞こえてきません!
そういうものは、現実にそういう方には意識が動かないんだから、うっちゃっとくしかありません。
私は絶対に、こちらの”さかしら”を立てて、そのものに手をかけるようなマネはしたくありません!
”そこを会に忖度して、会の在り方に従いなはれ”、と言われても、何が忖度だ、イヤだ、妥協なんかしない、ゴメン、サヨウナラ!...”
と、内輪の話はさて置き...
昔も今も変わらない、私自身の現実に示された、顕わになった、開かれた、思いを超えたものとはどういうものか?...と言ってもそれは言い表せないものなのであり、私の関わる、思想、主義、信仰、修行等々を全く超えたものだ、ということを言い表した次第です。

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神無くしては立ち行かない

2024-08-24 09:28:53 | 
毎度のことながら神が何かということは分かりません。
しかし、神という言葉は持ち出さずとも、特別な信仰を持たずとも自分を超えたあるもののことは、誰でも直感出来ると思うのです。
それ無しに、どうしてこの人間世界が立ち行くことが出来るでしょうか?
人間は一人では生きてはいけない、否その成り立ちからして、その個体だけで成っているものではない、ということも私の縁で言えば、大調和協会のその聖業(みわざ)などを通じて知らされ、そのことを私自身も直接的に知らされているのです。
だから、その自他一体なることに目覚め、人間存在に本来的に根付いている、その共同体的なものを指向し、その成就に務めなければならないのです。...って、そうではあるのだけど、私が本当にここで言いたいことは、その共同体的な在り方をどうこうしようと言うことではありません。
その思いを超えた、神的なもの無くしてどうこう出来るはずがないではありませんか?
その自他一体の調和世界の在り様は、神あってこそのもの、人間相互のつながりというものは、神とのつながりを欠いては成り立ちようが無いのです。
それを欠くならば、ベルジャーエフが説き明かしたように、コミュニオンという霊的な共同意識は、共産主義体制に見る、極端な集合主義へと変質してゆかざるを得なくなります。
神、聖霊、キリストを通してつながる霊的共同意識も外的な教会制度の内に蒸発してしまうに至るのです。
これは、ほんの一例なのでして、人間が人間だけで営む、すべてのことに当てはまることと言ってもいいでしょう。
思想、主義、そして神信仰というものからしてが!...私の思想、主義、信念、信仰.、方法..”この私の信じる教え、方法は他とはこれこれの点が違うのだ!”、とその特質性を主張してやまない...そこには、自らの他に比べての優位性を持ちたいという心根が伺える...いくら調和世界のことを外に説いていても、人間だけの人間は、どうしても相対観から自由にはなれないのではありませんか?
私、我々の、信じ、行っていることに取り込んだことは、すべてが私、我々の思いを超えたものから切り離され、その本来性から逸脱し、それを失うに至ると言ってもいいのではありませんか?!
ある時、”そんなこと言ったら君イ、世の中立ち行かなくなるではないか?”、と、先のようなことを話している中で、向けられたことがありました。
その時は、その言葉に押し切られ、妥協したような形になったのでしたが、いや、根本的に立ち行かなくなるのは、人間存在の根底からそうなってしまうのは、実に上記のことが問題となるのではないか!
神的なものと切り離されれば、すべてのことが行き詰まり、霊的な生命が枯渇するに至るのではないか!
だから、いつも神に意識を向ける必要がある、祈ることがそれにつながると言うのです。
もう、私はずっとここでそういうことを言い続けているのですよ!...これが私の信仰、祈りなのです!...って、そおではない!...私のとか我々のとか、私、我々が思っている、やっているということは余計なことなのです!
(私はね...)それが何かは分からないけれど、この私の現実に顕われた、出て来たものにどこまでも、心を、意識を開いて、その導きのままに、なされていくだけなのです。
取りて、為すのではない!、成って来るものにどこまでも開いてゆくのみ!...
もう、妥協などはすまい!、絶対信があるのだから!、それが私の信!...(でもないか?)
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ずっと神と共にある

2024-08-18 10:08:27 | 
いつも言うように、私には神がどういう存在なのかは分かりません。
しかし、自分の思いを超えたあるもののことは分かるのです。
知識的にではなく、感覚というか、直接体験として。
それは、愛、平安、リアリティを伴ったものとして。
それが所謂神と呼ばれるものなのかどうかは分からないけれど、私的にはそれ以外に神的なものを思い浮かべることは出来ません!
だから、所謂神のことなどどうでもいいのです。所謂神について語られるものは、ほとんどが知識、外聞として語られるものばかりではないか?
私の思いを超えているということは、その私自身が、それまでかく思っていた私では無かったということなのです。
といって、取り立てて、“私は神と一つになった“、などと言う必要もありません。それでは凡夫の、ダメな私が段々神と一なる境地に達したなどと誤解されてしまうことでしょう。
私はそういう修行などしてこなかったのです。私はずっと凡夫、ダメなままなのです。
その私が、“ずっと神的なものと共にある“、と言ったらダメなのか?
自覚的には、そうですね、精神的な道に関心を持って、その愛、平安、リアリティを感じ始めてからです。
勿論、これは今でもそうなのですが、それが諸々の想念、欲望などで覆われて、見失うこともありますよ。
だけど、それは本来の、本当の自分の状態、神と共にある状態でないことに気付けるかどうか...これが肝心なことなのです。
それが分からないことが、本当にダメなことでしょう?...本当の自分のことなんだから!
何が本当でないかは分からなければオカシイ!
これを何人の人が読まれているのかは知る由もないけれど、人に知ってもらう、認めてもらうことじゃありません。自分自身としてどうなのか?
人を意識すると、ともすれば自分の思想、信仰、信念などの正しさを人に認めてもらおうと
図ったりするものですね。己の立場に固執する。何故、固執する必要があるのか?...内心はその正当性は、ホントはアヤしいと思っているからではないのか?
自分自身に、神に聞いてみればいい!
それで、自分の信念などコッバミジンになったとて構わないではないか!
修行して積み上げてきて、一体何が残るというのだろう...
ずっと積み上げてきた信念、立場が爆破されても、ずっと、そこに在り続けるもの...
それは、決して私のものとはならない、そうしてはならないものでしょう。私物化することは出来ないのです。
神に意識を向け、神を頂いていなければ、そのように主我的にならざるを得ないのです。
そこには、一個なる自分、自我しかなくなってしまうからです。
真我を求めることでも、容易く自我に取って代わってしまうでしょう。神と切り離された本当の自分というものは無いのですから!...
私は、神を自分の主義や信仰、修行などで取り込んだことはありません。多分、(イロイロな意味で)ダメだということが分かっているからでしょう。
だから、私は神と共にある、というよりも神の方がずっと私と共って下さるのでしょう...。





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自由なる神

2024-08-04 09:54:23 | 
私は、いつもここで神について書いていますが、特定の宗教、教えに寄りかかることなく、自由な感性で書かせてもらっているのです。
これには、返す返すもかつて入信していた宗教団体で、その教条的な在り方で信じ従わせられていた、神についての教えに縛られていたことが、そこから離れることで解放されたことが、実に大きいことだったと言わねばなりません。
ということは、私はその在り方に心から信頼など持てるはずもなく、疑問、不満、苦痛を抱えていたという訳で、裏を返せば、神について心から求めていたものは、自由な在り方によるものだったということです。
つまり、苦しみを感じなければ、そこから自由になりたいという思いに駆り立てられることは無かったのです。
それはしかし、そういうしがらみを抱えている(と思っている)自分からは、中々そのように決心することは難しいもので、そう自分の背後から導くものがあったりするものです。
私の場合、それは(言うまでもなく)神です!...度々言うように、それには五井先生との出会いというものが大きかったのには違いないですが、私には元々、その教団に入信する以前から、左程意識的でないながらも、私なりの神についての理解というものは持っていたのです。
それは、大まかに言うと、神は愛であって、いつも私の背後で守り導くものだ、ということであり、そういうことは、何度となく、何となく感じていたのです。これが五井先生の教えと結びつくのも全く自然、当然なことと言えるでしょう。
そして、五井先生の白光会に入会するのも自然なことのように思えるのですが...そうはならなかった!
その他、形の上でに入会した団体はいくつかあったものの、普通の信者のような、一つの宗派、グループに専心し帰依して行くような関わり方は一度も無かったのです。
何故かと言えば、神は自由だから!...あの教条的な教えの呪縛から解放されたのは、自由なる神の導きによるものではなかったか?
神は、如何なる先入観、固定観念からも自由である...神は私の思いを超えているのだから!
様々な宗教、宗派から学ぶのは自由でしょう(余計な、雑多な知識を仕込まされることは、人間の団体には付き物ではありますが)...それからの、あの疑問、不満、苦しみを再び繰り返す必要は無いではないか?
その学びは、遅かれ早かれ、その指し示すものに還元されねばならないもののはずなのです。
でなければ一体、何のための学び、信仰、修行なのか?
こうしたことの声なき示しは、私がその宗教信者を辞めた時、ハッキリ受けていたのです。
その時だけのものではありません。ずっと受けているのです!
しかし、そいつは私の観念なのだろうか?...そうかもしれませんが、諸々の観念は、来ては去っていく中で、こうして今も思いを超えて感じてしまうんだからどうしようもありません!
だから、その催しというか、おハタラキは自由に、神ながらのまにまにおまかせするよりありません。
そうして、私も自由に在らしめられるだけ!...








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内なる神と人類

2024-07-13 09:42:03 | 
神は人の思いを超えたもの...
もう、私はこのことをマントラのようにいつも言っています。
そういうものをいつも感じているのですが、それは端的にどういうものかというと、やはり愛としか言いようのないものなのです。
愛というものも、より我々に近しく感じられるように、思いを超えたものでしょう。
このことで、自己と神は分かち難い関係にあるもの、ということを言い表しているのです。
だから、愛念というものが深まれば、神的なものを感じるようになるし、その逆にもなるのです。
にも拘わらず、これまで多くの宗教で、神は我々に隔絶した、万有の創造主、支配者として、又善悪を裁定する裁き主というようなイメージを与えてしまい、我々の意識から遠ざける傾向を作り続けて来たようです。
そこに、五井先生などは、神の“守護の神霊”という面を強調し、世界平和を祈るということで、愛念を起こすことを勧めたのでしょう。
それ以前にも出口王仁三郎師は、“瑞の御霊“として、神の救済のハタラキを表し、”人類愛善”を唱えたのでした。
ただ私などは、その人類というものが、私自身の現実からは隔絶したもののように感じてならないのです。
何よりも、神との愛というものは、自分自身との関係において、内側から示されなければ、本当にリアルなものにはならないでしょう。
この意味で、平和という言葉はちょっと抽象的であり、愛の具体的な表れは、平安という響きとして実感されるものでしょう。
いやだから、ホント~(リアルに)に、愛と平安は分けることが出来ないのですって!
もう私は、超越的な神というものは、思いを超えていることを直指しているものであれ、自己と超絶したものとして感じることは出来なくなってしまったのです。
思いを超えているということは、それだけ私に近しく、一つになるということに他ならないのですから!
そして、この私なるものも、一個なるものを超えて、他者性とつながるもののように感じ始めるのです。
その他者は言うまでもなく、抽象的な人類といったものでない、言うなれば、具体的な”私の内なる人類性”といったものでしょう?
そういう愛、平安に与るならば、それが一人でも多くの者に、それが分かち合えるようになるのを願わずにおれなくなるのが、自然なことではありませんか?
言葉、形は如何なるものであれ、神的なものと愛念で一つになる祈りが広まり、深くならんことを!...
一人一人に愛が浸透すればするほど、思いを超えた神的なハタラキが顕わになる...
そして、それは逆のことでもある!
私の願い、祈りは願わされ、祈らされているのでしょう!...




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