人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

キリストの内住

2022-08-04 09:57:08 | キリスト教関連
神の手に捉えられると、普段の現臨感覚にある時に増して、思考も為す力も後退し、本当に神にお任せせざるを得ない状態になります。
こうなると、私個人が生きている感じでなく、私を超えた御方が生きたもうような...例えば、使徒パウロが、「もはや、我生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり」(ガラテヤ書二章)と告白したような感じになってしまうのです。
これは、断じて思われた私がそうなるということでなく、意識の次元でそのものとつながるということなのです!又は、意識の内奥でつながっていたことに目覚めるという言い方も出来るでしょう。
そして、このことがもう、言葉に言い表されない至福感をもたらすのです!
かつて、小池先生なき後のキリスト召団の集会でも、キリスト友会(クエーカー)の集会でも、そういうことに与りましたが、”もはや、キリストを対象化して信ずるという有り様は終わってしまった!...キリスト教では無い、キリストの内住である!“と感じて、何か言葉にならないことを、上より迫られるまま祈らされたか、語らされたのでした。
元々ノンクリスチャンである私がそのように語ったりするのは、オカシイと思うのですが、長いこと、クリスチャンになる気は無くとも、キリストを信じ、受け入れるということはどういうことか、ということを巡り、煩悶し続けたことがあって、何かつかえていたものが取れたという感覚がそのようにさせたのだと思います。
これは要するに、宗教宗派というものは、もうスッカリ超えられてしまったということなのです!
内なるものこそが普遍的なものなのです。
キリストの内住とは、如来住ということであり、アダムカドモン(ユダヤ教カバラ)、神直霊(かむなおひ)の発現ということでもあるのでしょう。
又、本山博先生も述べられていたように、意識が神的なものと出会う領域で、そのものにあるということは、時と所を超えているのです。
初めて神に捉えられた、大阪梅田の地下街で号泣した時も、数年前ファミレスでコーヒーをすすりながら“すすり“泣いた時も...同じあの本来名付けられない御方が日常の私を奪っていたのです!
そして、この今も...ああ...内住のキリストにあって、思われた私はそれに化されてゆく...
もはや、この私が思い、為そうとするのではない!、思いを超えてあの御方がそれを促進してゆく...
キリスト教系カルト宗教のことが世間を賑わしているようですが、キリストの教えを対象化して信ずる在り方の末期症状を見る思いがしてきます。
同時に、一段と内なるキリストの顕現のあらたなる節目を迎えた感があります。
生くるは、内住のキリスト...



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単純なキリスト教

2021-12-18 10:06:16 | キリスト教関連
世界の主要な宗教の中で、キリスト教ほどヤヤコシイものはないと思います。
"イエスを神の子、救世主と信じる、三位一体の教え、十字架の贖罪、聖書の無謬性を信じる..."、このようなキリスト教の一般的な教理を信じないと、キリスト教徒と見なされないようなのです。
誰が決めたのか?...多分、彼らの間でか、彼らの中のエライ人によってでしょう?
その宗派の一つ、フレンド会(クエーカー)には、クリスチャンになりたいのだけど、そうした信仰上のハードルがあって、中々踏み越えられないでいる求道者が結構来られるようで、私も何人かからそうした話を聞いたことがあります。同会はかなり入信の条件が自由だからでしょう。
私は聞いていて、何とも不思議に、一寸イラつく思いにさせられたのでした。"信じたくない、信じられないのなら信じなければいいじゃないか?"...いいや、それじゃクリスチャンじゃなくなる、と言う。...クリスチャンじゃなけりゃどうだと言うのかi、彼らがそう言っているだけのキリスト教などi...
クリスチャンになることはある種のブランドなのでしょうか?...それとも、そうした教えを信じなければ救われないと思っているのでしょうか?
"あなたは、どう思っているのですか?"、と訊かれ、"どうでもいいと思ってますi"、と答えました。(ちゃらんぽらんで悪かったなi)
確かに、私とキリスト教との関わりはフツーじゃありません。
最初に接したのは、手島郁郎先生の原始福音で、何しろ初めて手に取ったキ教関係の本には、"教理など信じたって救われるもんかi"と書いてあった、のですi
そして、"聖霊を受けることによって救われる"、とありました。私は、へえ、そういう"教え"もあるのかな?、と思ったものでしたが、そこに理屈でなしに、惹き付けられるものも感じていました。
勿論手島先生でも、もう少し後になって知った小池辰雄先生でも、聖霊は聖書のキリスト.イエスと結び付けられています。
これは微妙なところで、教理を信じる部分とも抵触してくるところですが、私は聖霊を本当に体受させられることは、すべての思弁的なことは超えられるものだと感じています。
聖霊は、思いを超えたもの、神的な、霊なるものでなくてなんであろうか?i...贖罪ということも、この"聖霊を受けること"の中にあるということは、小池先生も示唆していることです。
実にキリスト教から、諸々の教えを抽象的に信じることを退けたら、こういうことしか残らないのではないですか?
聖霊、形なき命に与ること...これがすべての宗教の根幹的なことではありませんか?
キリスト教は本来、目立った教理も、行法も、儀式もなく、全く単純な在り方を伝えてきたものだったのです。(そもそもキリスト教は自称でなく、他から侮蔑的にそう言われていたi)
霊的生命というものが廃れて、それを補うかのように教理信仰に重きを置くようになっていったのでしょう。
何が第一義のことなのか?...永遠の命に与ることは、キ教がいつも唱えていることですが、紙に書いてあることを信じたって何にもなりません。神に自分を投げ入れなければ...
人からは何教と言われようと、何教でもない、と言われようとどうだっていいじゃありませんか?
しかし、キリスト教徒は勿論、その予備軍?の人からは、"あなたは、クリスチャンではない"、と言われ、アンチ.クリスチャンからは、"あなたは、クリスチャンだ、"と言われる私は一体...?
私はただ在りたいだけですi
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キリスト教の個と普遍

2021-04-08 11:48:10 | キリスト教関連
使徒パウロにとって、キリスト.イエスこそは正師だったのでした。
いや「もはや私が生きているのではない。キリストが我が内に生きたもうのである」(ガラテヤ書2.20)というのだから、それ以上の存在なのかもしれません。
しかし、パウロは生前のイエスを知らなかった...つまりは、その神人は"見えざる導師"だったということでしょう。
もし、パウロがぺテロたちのように生身のイエスを知っていたら、あのような実存的回心体験に与ることが出来たでしょうか?
おそらく私は、アンチ.キリストの急先鋒のままだったんじゃないかと想像します。
見えざる導師との関わりは、より直接的なものとならざるを得ないようです。
所謂キリスト教の神秘思想家と呼ばれる人たちに見るまでもなく、キリスト教の"師資相伝"を物語る例というのは、こういうケースが圧倒的に多いですね。
彼らは皆、正師について異口同音に"霊なるキリスト"を語るのです。
では、これがそもそもキリスト教会なるものの発祥となった、あのペンテコステの聖霊降臨の出来事はどうだったでしょうか?
「彼らは酒に酔いしれているに違いないi」(使徒行伝)...これ、私自身が40年程前、初めて小池先生のそのペンテコステ集会に直に接して感じた印象に他なりません。
大声で何か叫ぶ者、泣き叫ぶ者..."彼らは、理性がどうにかなってしまって、集団的熱狂に憑かれているんだ..."
しかし、そう傍らで訝しく感じていた私自身も、ずっと後にそれらと同様という訳ではないにせよ、その頃とは違い、大分"大人しくなった"その集会でどうにかなってしまったことがあります。
私は、そこで断じて集団的熱狂に飲まれた訳じゃありません。集まる人たちの方が理性的で熱狂的でなかったのですから...
クリスチャンでない私は、そこで我が師キリスト.イエスを証した訳でもないのです。(多少、その場に迎合したことを述べたかもしれませんが)私の"正師"に迫られるまま、やむにやまれぬままに何ごとかを語ったのでした。そしてそこに漂う、言い知れぬ一体感というものを覚えたのです。
このように傍目には、集団的熱狂、陶酔に映るものでも、その内実は伺い知れないものがあるのです。
しかし、それは容易くそうしたものに流れ、変質してしまうとも限らないものであるのも事実でしょう。私はそういう実例にも接して来ているのです。
それは、そこに集まる一人一人の意識の有り様如何によると言えるでしょう。
一人一人の実存に開かれてあるか、そこから生まれる自由な共同意識に根差したものであるか...
似て非なる集団的熱狂の事態とは、"私が私自身で居られる"我々の共同意識に集団的思念が介在し、それにおもねることによって生まれるのでしょう。集団的思念からは、思いを超えた内的実存は開かれないのです。
それは言い換えれば、普遍的なものに開かれているか、どうかということに尽きるでしょう。
集団的思念がいよいよ強固となるとカルト集団となる...この違いには天と地ほどの開きがあると言う他ありません。
私は、ベルジャーエフがその霊的共同体"ソボールノスチ"について説いている中で、集団的なるものと共同的なるものとを使い分けている表現法に習ってかく言うのです。
ともあれ、キリスト教の霊なる命、形なき命の相伝には、自己を超えた共同体に意識が向けられていることが知られるでしょう。
これはその母体となった、ユダヤ教から受け継がれて来たものでしょう。
それは個にして普遍なる神の国の実現と結び付いている...私の深部にはこうしたものが拭いされなく横たわっているのです...。
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始めにあるもの

2020-12-24 12:20:24 | キリスト教関連
「私たちは、神を知ろうと人間の側からいくら努力しても、神の側から御自分の意思を示し、語りかけて下さるのでなければ何も分かりません。...神の化身、キリストを見て、私たちは神の自己表現を拝し驚嘆するのであります」
(手島郁郎「ヨハネ福音書講義」/手島郁郎文庫刊)

「始めに言葉ありき...」(ヨハネ福音書第一章)
私がいつも言っていることは、この言葉に集約されると思います。
言葉...これはしかし、何とつまずきとなることでしょう...それは聖書の"みことば"のように解され、始めにこの言葉を信じなければならないとしたら、"始めに聖書の言葉、私たちの観念ありき"、ってことになってしまいます。それで、一体何が始まり、開かれるのでしょうか?
この言葉の原語は、ギリシア語の"ロゴス"です。これなくして何も始まってこないもの...始めにこのものがあったのですi
こんな命と同じくらい大切なものであるにも関わらず、適当な訳語が無いらしい...だから文語では"道ありき"というのもあるのです。
私は専門でないので、詳しいことは分かりませんが、このロゴスから"表れ出る"ものというヒビキを感じます。
そして、さらに肝心なことは、手島先生がいつも述べていたように、それが私たちに直接関わり、タッチしてくるものだ、ということなのですi 
だから、"ああ、ここに我々の思いを超えた神的なものが生きてハタライて下さる..."ということが分かるのであり、そうでなければ神といっても、漠然と人伝に聞いたことや、書かれてあることを思い描いているしかならないでしょう。
ロゴスとは神の自己表現、自己顕現に他なりません。
我々日本人は"言霊(コトタマ)"という言葉を知っておりますが、さすがに先生はロゴスにこの漢字を当てているのですが、こっちの方がはるかに霊なるもののヒビキが伝わってきます。
この始めにあるものの消息は何も、聖書、キリスト教に限ったものではありません。
誰よりも玉城康四郎先生が明らかにしたように、仏教はブッダの修業努力から開かれたのではなく、形なき命~ダンマの顕現によって開かれたのです。
老子は又、"名の無い道(タオ)は天地の始めであり、名(ロゴス)は万物の母である"、とこのヨハネ伝に通ずるようなことを伝えています。
イエス、ブッダ、老子...古の道は"始めにあるもの"を伝えているのです。
ただ、イエスの道においては、より神の自己表現の様が、"人の子"を通してと具体的に表されていると言えるでしょう。
イエスの人格的表れは、我々一人一人の人格と相即されるが如くです。
ともあれ、こうした"始めにあるもの"が、我々から失われてしまったことにより、始めに思われた自分があり、そこから数多の思い思いの信仰や修行方法が生まれるに至ったのでしょう。
思われた自分が信仰し、修行をして、幸福や神的な力を得ようとばかりに...
しかし、始めに神的な表れがあったのですi 始めにあったということは、それは我々が求める以前から与えられてあった、ということでしょう。
これは受け入れるしかありません。ただ、受けるということがあるだけです。
といって、"受けよう、受けよう"、と力むことじゃないですよi "始めにあるものは与えられているのだ"、と信じ込もうとすることでもありませんよi
"始めにあるもの"をチョイと意識するだけで、何かが始まってきて、もう、それを受け入れるっきゃないって感じになってきたでしょう?
クリスマスだし...
この自粛モードのクリスマスこそは、始めにあり、失われたものがよみがえる絶好の機会が与えられていると言えるでしょう...。
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聖霊の新時代

2019-08-17 11:50:57 | キリスト教関連
このブログをずっと読まれている方ならお分かりのように、私は特定の宗教宗派から自由なのです。
特定の宗教的グループと関わったこともありましたが、そこでセクト、宗派性をもたらす言動に触れると強く反発を覚えたものです。そのグループと内的軋轢が引き起こされた主たる要因は、那辺にあったと言ってもいいくらいなのです。
しかし、ある宗教的領域で言い習わされている言葉に、特に惹き付けられるところがあります。
それはキリスト教的領域で"聖霊"と言い表されているものです。
言うまでもなく、私がよく(聖霊と言った場合、どうしてもキ教のイメージが付きまとうため)"現臨"というものと結び付けて言っているものですが、もう、その片言に触れただけで胸が高まってくるのを感じます。そう、意識が向いてしまうのです。
長いことその理由が分からなかったのですが、ブログを書いているうち何となく分かってきました。
それは、そこにキリスト教にまつわる信仰や神学などで色づけされない、純然たる聖霊の事態というものは、特定の教義、修行、儀式などに関わらないものだからです。
逆に言うと、その雑多なものが介入しだすと、それは立ち所に蒸発したように感じてきます。
つまりある教えを信じなければ、聖書を読まなければ、ある方法に則らなければ、教会に行かなければ、洗礼式に臨まなければ、聖霊に与ることは出来ない、ということはないのです。
逆説的に言えば、聖霊の事態はキ教の範疇を超えているのです。
キリスト教のキの字も知らない人でもそれを受けることが出来るのです。このことはこの無宿人の私自身がそう導かれたことで反証されることでしょう。
聖霊は古来よりプネウマ(風)にたとえられてきました。風は吹くところに吹くもの...特定の信仰や方法などで、方便といったもの以上に囚われるや、生命の枯渇につながります。
いつも感じていることながら、世にスピリチュアルと言いますが、これほどスピリチュアルなものは無い、と言っていいものが、あまりにもなおざりにされ過ぎてはいないでしょうか?
そこに相対的、人間的な教えだとか、教師だとか、メソッドなどがのさばり始めるのでしょう。
聖霊に与るとは直接的なことです。何かを為そうとする自己に先だってあるもの、天来のものであると同時に、元々うちに息づいているものです。この二つが引き合うところに聖霊がハタラく...信仰や行法によらずして...
聖霊は、このようにそれ自体が超宗派的なものと言ってもいいでしょう。(いや、全く私は惹き付けられてやまない訳です)
玉城康四郎先生は、原始仏教の究明から仏教的ダンマを聖霊と同質のものであるとし、それは諸宗教の根底に息づいているもので、セクト性を超えて、その原初的生命にあって共存されるとしています。
小池先生やベルジャーエフ、ティリッヒ(ドイツから米国に亡命した神学者)らも等しく、普遍調和に導く聖霊による新時代のヴィジョンを掲げていました。
私は日増しに強まる耳鳴り、風が心身に吹き抜け、浸透して行くのを覚えるにつれ、その時代の息吹を感じてやまないのです。
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