人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

イエス.キリストの真実

2019-05-11 11:19:20 | キリスト教関連
先日、久しぶりに東京のクエーカー集会に参った折り、Aさんという初見の方と会いました。
その佇まいから牧師さんかと思ったくらい、聖書に通じており、如何にも"福音派"という雰囲気を漂わせている人なのでした。
実際に教会生活が長かったそうですが、こういう人はクエーカーでは珍しくありません。
この方と、旧知のNさんという、ヒマが有れば色々異なる教会、他宗派("ええっ、あんなところにもi"...というのもあります)の集会などを経巡っている(正直、まだそういうことを続けているとは思いませんでした)という、対照的とも思えるヘン?な人と三人でしばし雑談に耽っていました。
その中で、Aさんは、「イエスが十字架にかかったのは、我々の肉の存在は、その十字架で死んだのだということ...復活したイエスこそが永遠の命なのですi」と、教会に行ったことのある人だったら、誰しも一度は聞いたことのあるような、何ら真新しくないことを語るのでした。
ただ、言葉は使い古されているけれど、私は仄かに、どこかそこに"真実に近づきたい、触れたい"という思いが、見え隠れしているのが感じられたのです。
そして又こういう興味深い話も聞きました。
「聖書にこうありますね。"人が罪から救われるのは、律法を守ることによるのではなく、キリスト.イエスを信じる信仰による"(ガラテア書2章16節)と...しかし、この"信仰"とあるのは、最近の訳では、"真実、まこと"というのもあり、原語のピスティスというのは、どうもそういう意味があるらしいんですよ...」
ここからの話は、大体私も同調出来るものがありました。
これまでのキ教(特に新教)は、とにかく"信仰に始まり、信仰に終わる"というくらい、もうすべてにおいて信仰ずくしだったのではないでしょうか?
分かっても、分からなくても、信じるのですi...でないと救われないんです、と..."信じるものは救われる"...これはすべての信じる宗教の雛形と言ってもいいでしょう。
すべては私の信じるという"思い"に負っている訳です。しかし、よーくここに留意すれば、これほど真実に遠いものは無いと言っていいのではありませんか?
私は救われたと信じるだけだったら...そういう思いが消えると同時に、消えて行く他は無いではありませんか?
では、イエス.キリストの真実とは何でしょうか?...(そのことを信じてはいけませんよi)
真実とは疑えないということです。"ホントかどうか分からないけど、聖書に書いてあり、エライ人が言っているから、救われたいから信じよう..."何てところに真実など無いのですi
そこには真実在らしめるものがあるだろう...現臨
イエスに表れた現臨は、今現在ここに現れたもうた...現臨にあって、イエスの真実と私の真実は、一つになるということではないでしょうか?
この真実は、イエス.キリストにのみ現れたのでしょうか?
肝心なことは信仰ではない、真実在らしめるものです。ブッダの真実、ラマナ.マハルシの真実は、各々の縁者の真実が物語るであろう...
私はこの文化遺産にもなりそうな、時代がかった、古びた教会にも仄かに真実の光が輝き始めているのを感じ取っているのです...。
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知恵の御霊

2018-12-07 12:51:11 | キリスト教関連
小池辰雄先生には、その自由な福音理解、展開によるものか、直接その集会から離れた人であっても各々の在り方で、やはり自由な歩み方をされる人も少なくありません。
この人たちは、諸々の事情から小池先生と袂を分かつことになっても、ずっとその形に表れない学統?を受け継いでいるように見受けられることが特徴です。
そのお一人に京都の私市(きさいち)元宏という先生が居られます。
私は昔からお名前は存じておりましたが、具体的にどういう方かは最近その方の著書に接するまで分からなかったのです。
「知恵の御霊」(マルコーシュ.パブリケーション刊)という著書なのですが、その出版社のイメージから聖霊カリスマ運動とかの内容かと思いましたが、実に学識と霊性のバランスの良さが伺え、やはり小池先生の門下の方かなあ、と感じたことでした。
内容は私が最近感じていることと通うものがあるのですが、簡単に触れますと...
我々はともすると、一般通念を基にして旧約聖書を背景にしたユダヤ教は律法を重んじ、偏狭な国教という性格の強い宗教で、キリストの出現から愛と知恵に基づく普遍性に開かれた福音というものがもたらされたという、先入観を持ってしまいがちになりますが、実は外典を含めた旧約聖書に"知恵の御霊"とも言うべき霊統?(それは古代メソポタミアの宗教に遡るという)が息づいており、キリスト.イエスとして結実した、というものです。
これは古来よりの聖書的世界のことに留まらない、多くの事柄に通底している問題と思いますが、どの宗教にも外的な関わりとして律法とか、戒律など守らなければならないもの、イデオロギー、信条といった信じなければならないものがあります。これは宗教が集団として機能する場合には多少なりとも関わらざるを得ない問題でしょう。
だが、本当に一人一人が神的な生命に与り、交わり、目覚めてゆくことは内的に関わることであるのは言うまでもありません。
これは例えばユダヤ教は律法、キリスト教は福音の宗教などという短絡的な図式など全く無意味でしょう。
どの宗教にもこうした二つの側面があり、大体においてごっちゃに理解されているのが普通でしょう。
私市先生が福音に導かれるきっかけは、1950年代フィンランドのペンテコステ派の宣教師との出会ったことで、そこで聖霊体験に与ったそうです。
同派は原理主義的な性格が強いことで知られますが、その後小池先生と出会われ、その自由な福音理解に共感し、ご自身も独自に無教会的、幕屋的集会を持たれて今日に至っているとのことです。
私は一時、あの異言を伴う熱狂的な聖霊の事態というものに憧れを持ちつつも、警戒もしていました。
「ぺらぺら、ぽろぽろ」とやっているうちに魂がアーメン霊団?に乗っ取られて、原理主義に支配されてしまうのではないか、と。
私自身はその集団熱狂の中で、どうにかなったということは一度も無かったですが、ある集会で現臨に捉えられしまってからそういう疑念は薄らいだのです。
そして私市先生のことに触れて改めて感じました。聖霊の事態というものは、集団熱狂を伴うものがすべてでなく、多様な在り方があるものであり、信条、イデオロギーとは直接関わらないものであると。
霊のハタラキというのは、風が好むところに吹くように中立なものと言えます。
意識の有り様に応じたものが現れるのです。何にせよ意識の在り方が如何に大切なことでしょう。
そして一人一人内的にその生命を深く体受してゆくことが基幹であり、人と人とのつながりというものも、先の外的な関わりに偏したものでなく、内的関わりに根差した在り方もあるということです。
それはどこまでも先生が説いてやまない、知恵の御霊の導きによるものなのでしょう。
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我は道なり

2018-09-17 12:05:21 | キリスト教関連
「我は道なり。真理なり、生命なり」(ヨハネ伝第14章)

この句は、クリスチャンならずともよく知られています。
この後、「誰でも我によらなければ、父のみもとに至れない」と続き、クリスチャンは鬼の首を取ったように、"だからイエスを信じなければ救われないのだ"と、都合よく主張する根拠にしていたりします。
"ここに書いてある、イエスはこう言っているではありませんかi"と言わんばかりに... "ふ~ん、だから何だi"
そういうことは、実際に"父のみもとに至って、救われてから"言えばいいのであって、信じこむだけで、そうなったつもりのことをいくら言われてもちっともこちらの魂に響いてきません。
だから、すべてそう信じられている、他人事のような信仰で片付けてしまうキリスト教など私は大キライです。
本当にホントに大切な、欠いてはならないことは、そう信じられている信仰でなく、あなたにとってどうか、ということに尽きるのですi
私は?...クリスチャンになったことも、なろうとしたことも一度もありません。
しかし...「力はキリストより来る。これを忘れるとヨガ、座禅、断食などの方法に迷う」(手島郁郎)
大学時代、「生命之光」誌の特集号を読んで、一寸常識離れしたことが書かれていて、色々複雑な思いが交錯したのですが、手島先生の話には妙に惹かれるものがありました。それからもう少し後に触れた、"私はカソリックでもプロテスタントでも無教会でもない、キリスト直結です"と語る小池先生にも...
以来、ずっと今でもそれらに接するとハートの高鳴りを覚えます。これは理屈ではありません。
私は熱心な聖書の読者でも、キリスト信仰や神学などを学んだことも、そのつもりも無かったのです。何しろ旧教と新教の違いも、"無教会主義"というものも前記本ではじめて知ったくらいです。
勿論、修行などとは縁などありません。キリスト教は他宗教と違って、大方では修行法というものは発達して来ませんでした。その代わりというか、押し付けがましく、観念に流れてしまう信仰や神学、あるいは対外的な慈善活動が発展しました。
私が理屈抜きに惹かれてしまうのは、その先生らの言葉に、それらの余分な介在的要素をあまり感じさせなかったからかもしれません。
とにかく、ジンジンと私の内も、外も臨在してくる感じ...これがそもそものスピリチュアルというものでしょう。
「我は道なり」とは一体どういうことなのでしょうか?
セクト本位の教義、聖書に書かれた言葉を信じる信仰、神学、各種の修行、慈善活動を通らなければならない道でしょうか? キリスト教徒になる道でしょうか?
キリスト.イエスが示したものは、直接的な道、即応した道でしょう。
それは、信仰、神学、修行を通し、介したものでない、自己と神的、霊的事態というものが直につながる道です。
こんなにもシンプルな道というのはありません。
それはどこまでも自己の内奥に開かれなければなりません。直接性とはそういうことです。
あなたという"人の子"によらずして、一体どこに至るというのでしょうか?
欧米を中心に非二元論が台頭してきたのは、キリスト教が二元的様態を強めて、観念の硬化、形骸化を来してしまったからでしょう。
内的生命の事態が失われた時、介在物がはびこるのです。
しかし、本来このキリストの道ほど"ダイレクト.パス"(直接的な道)を示したものは無かったのではないでしょうか?
少なくとも私にはそうでした。
キリスト教は大キライですが、キリストの道には理屈抜きに惹かれるのです。

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十字架と復活の内実

2018-05-22 18:10:36 | キリスト教関連
"ただ、信じていればいい"という信仰は、どこまでも観念世界を超えることは無く、ヴァーチャルなものに過ぎません。
それで何かの心の慰みになるというのなら、構やしないのでしょうが、内的実存はいつまでも開かれることはありません。
だから、観念信仰を通して内的なものが開らかれ、そこに有る(かもしれない)至福に預かろう、と期待することは間違っているのですi
宗教には、こうした信じる信仰というものが付き物ですが、その最たるものはキリスト教でしょう(だから、アタシゃ大キライですi)。
その信仰の根幹的ものは、"十字架と復活"でしょう。いつまでもいつまでも、自分をどっかに置いて、十字架と復活のキリストを見上げてて楽しいんですか?...自分は罪深いことを信じているのか、罪を許されたことを信じているのかどっちなのだろう...
それはともかく、信仰はヴァーチャルなものと言いました。しかし、そう言い得るということは、何がしかの内実がそこに有るということではないでしょうか?
私はクリスチャンでもなく、"十字架と復活"の教理を信じている訳でもありません。
しかし...その内実とおぼしきものは知らされています。もう、その事に意識が向いただけで全心身が揺さぶられそうになります。
十字架と聖霊に関することは何度も触れています。それは小池辰雄先生からインスパイアされたものですが、私はそれが人間の内的実存に開示される事態であることを感じざるを得ません。
小池先生はしかし、"復活"に関しては、「キリストは永遠に行き通しの命なんです。だから"死んで復活した"とか言うのは相応しくないです」とかいつも述べておられましたが、ある面ではそうかもしれませんが、私はこの事は、我々一人一人の死んだように眠っている魂にとり、絶大な意味を持つものだと思います。
つまり、蘇って来るもの、復活するものは、我々の神的なものに連なる、キリスト意識とも言うべき意識なのです。
それは思われた自己、表層の意識だけに覆われたままでは開かれてきません。
何故、それに与れるのかと言えば、"十字架の道"を通らされるからですi 十字架...それは犠牲なのか?、苦難を背負うことなのか?、あるいはその道を通ることで我々の罪は贖われるのか? そういうことは、正に我々の"考えていること"のうちにしか無いのでしょう。
十字架の道は、無の道なのです。我々の思いを超えた領域で起きることであり、そこから照らされるままに示されることなのです。
そこで罪が贖われる、罪が消えるかどうかは知りません。しかし、私の経験に照らせば、罪に苛むガンジガラメの意識から解放されたのは確かなことです。
罪...より原初的なものは原罪と言います。それは思われたものより、遥かに根が深いものであり、物心付く以前から意識の底に根付いたものというのが分かります。これが我々の神的なものとのつながりを隔ててきたものに違いないでしょう。
贖罪とは、聖書にある通り、神との間を覆う幕が取り払われ、顔と顔を合わせて相見えることが許されるということでしょう。
しかし...別の面ではこの罪意識があるために、取り返しのつかない過ちから防いでいるとも言えるかと思います。
その過ちについてはハッキリ、詳しいことは言えませんが、自我意識が無化されないまま神的なものとつながってしまうことで、自我が肥大し、モンスター化して暴走してしまうような事態と言ってもいいでしょうか?
神秘体験とかぶっ飛んだらいいってもんじゃない...そうなってしまうくらいなら、ずっと毒にも薬にもならない信仰を続けた方がはるかにマシだ、と言いたいi
十字架の道とは神と人間との"健全"な和解、調和の道と言えるでしょう。
ところで、ルドルフ.シュタイナーによればキリスト.イエスの事蹟というのは、古代宗教で密儀として行われていたことを現実世界で展開したという意味合いがあったそうです。
そういう意味では"犠牲"、"贖罪"と共に"復活"の事態を示すことも欠かせないものだったのでしょう。
現実とは何でしょう。我々一人一人の内的な現実を置いて他には無いのではありませんか?
私はキリスト教に隠された内実に限りなく惹かれるものがあります。
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無教会と聖霊

2017-12-23 10:08:24 | キリスト教関連
「聖霊が心の内で教えるのでなければ、説教者が外から教えたり、説教したりしても無駄である。...聖霊がその人を内から照らすのでなければ、キリストに至ることはありません」
「聖なる教会は、信仰において隅石イエス.キリストの上に建てられた、霊的な、見えない集まりであり、その成員は全世界において、...あらゆる民族、異教徒、そして異なった言語を話す民の中に見出だされます」(ヴァレンティン.ヴァイゲル/キリスト教についての対話)

V.ヴァイゲルは16世紀頃のドイツの神秘思想家ですが、その語られる言葉は、17世紀英国のクエーカー派の創始者ジョージ.フォックスを彷彿とさせるものがあります。
こう書いて、いかにもフォックスが唐突にクエーカー集会を始めたように思われますが、実際はそれまで存在していた非組織的な集会を再編成した、と言った方が近いかも知れません。クエーカーには源流があったのです。
中世の後期、ドイツ、フランス、北部イタリアに跨がるライン川の周辺のアチコチに、教会組織を持たない小規模の集会が出現しました。
何しろ資料が少なく実体はよく分からないのですが、比較的有名なのは、ベギン会、ワルドー派、自由心霊派などで、これらは形骸化した教会体制への不満から、霊的生命に根差した原初的なキリストの道に立ち返ることを謳い、教会組織を持たないルーラルな集会を展開していたのです。
クエーカーはそれらが英国に伝播した流れにルーツが求められるでしょう。
クエーカーはその創成期の在り方ではないにせよ、今日も存続していますが、その源となったものはほとんど姿を消してしまいました。
この頃活躍したドイツの神秘思想家ヨハネス.タウラーは、「神の友」という信仰団体の中心人物で、その団体は「ドイツ神学」という題名で知られる書物の作者とも関わりがあったようです。(両者ともドイツ最大の神秘思想家マイスター.エックハルトの顕著な影響を受けていました。又ヴァイゲルはこれらの、カソリックでもプロテスタントでもない、裏の道統にある人でしたが、一方でパラケルススの錬金術との関わりから、やや後に表れたヤーコプ.ベーメに道を開いたのです)
我が国には、所謂「無教会主義」という集会の形態が知られていますが、上記の団体は欧米では新、旧の教会側からは、そうした公然と認知されることすらも叶わなかった、全く教会の外にハミ出した者たち、異端としてしか見なされない本当に教会無き信仰集団だったのです。
だが、皮肉にもこうした有り様こそがキリスト.イエスの原初的集会のそれに近いものなのでした。
そもそも教会の原義は「エクレシア」といい、呼び集められた集団のことであり、主なるキリスト、聖霊によって集められた者たちといった内実をもっていたのです。
ついでながら、明治期の内村鑑三先生の「無教会」も当初はこうした理念を掲げていたはずだったのですが、その形式に捕らわれない集会の在り方はおそらく渡米の折、クエーカーに触れたことに影響を受けたものと思われます。
ただ、その後はあまりに「聖書の研究」(内村先生が出された雑誌名)に重きを置きすぎてしまったか、聖書研究会といった赴きになってしまいましたが...
エクレシアというものは、そもそも霊的生命である聖霊のハタラキとともにあるものではないでしょうか?
聖霊との交わりに集う者の意識が向けられれば、外的な組織や制度、儀式などへの囚われは薄くなり、ひいては教義への固執からも自由になってくるでしょう。
無教会は、「無教」にも通じるのでしょう。
ヴァイゲルの上掲の言葉は、意識が聖霊により変容された状態をよく表していると思います。
即ち普遍調和世界の音信を伝えているのです。
それは単に教会が無いということではありません。"見えざる教会"なのです。
それは死んだ教会建造物ではありません。生ける有機体です。エクレシアたる教会は"キリストの体"と言われるのも頷けます。
しかし、この歴史に埋もれた"見えざる教会"の消息は、キリスト教にとどまらない普遍世界の開示の雛形であった、と感じざるを得ません。
今日、その出芽はそこかしこに見出だすことが出来ます。


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