ベルジャーエフは、生涯の早い時分から哲学者たることの使命を感じていたらしいのですが、おそらく自分が周囲から哲学者と見なされることを快く思っていなかったに違いないと思います。
そのことは、彼がロシア革命前、円熟期のほとんどを亡命者として送らざるを得なくなる以前に書かれた、初期の代表作とも言える、「創造の意味」(行路社刊)という書物の序章に伺うことが出来ます。
これがもう!...今日にまで及ぶ哲学界を根底から揺さぶる革命的な内容を含んでいるのです!
哲学に関心を持つ者なら必読と言えます! “本、買うの高い!“、と思う人は図書館で借りて読むべし!
読んだらきっと、満干の共感を得るか、頭が噴火するほどの反感で爆発するか、どっちかでしょう?!...中途半端ではいられない!(日和見根性なら読んではならない!)
「哲学は、いかなる意味においても学でなく、いかなる意味においても学であってはならない」
のっけからぶっ飛んでる...哲学というわが国で翻訳された通用語に従えば、これはもう、哲”学“の否定以外の何ものでもないではないか?!
この言葉は、ベルジャーエフを批判した、「彼の哲学はアマチュアの域を出ていない」という言葉を逆手に取れば、公認されている“プロ“の哲学者に向けられているのです。
「哲学者は、何故かくも学的たらんとするのか」これは、世間で認知されている哲学に纏わり付いている、高踏的、ペダンチックな、あのイヤミったらしい精神的態度の打破を意味しているのです。
学的哲学は、論理的思考を重ね、理論体系で固められ、常に論証によって真理(らしきもの)に導こうと図ります。私などは偏頭痛を引き起こすので、それを理解しようにも、読む気さえも起きて来ないのですが...
頭の論理だけで認識される、いかなる真理も私は受け入れることは出来ません。
それは、思いを超えておらず、どこにも落ち着くところがないから...安らぎを見いだせない真理などあるでしょうか?
この哲学の学的偏重の傾向は、ベルジャーエフによれば、精神の高み、深みから来る本来の哲学が有していた頭脳智と区別される、”智”の有り様を失ったためとされます。
「哲学は智を愛する。真の哲学の原動力は智である」
又、学的哲学を常に論証に駆り立てるのは、それが普遍妥当性を指向しているからだと言う。
何かの自然法則のように誰もが納得出来るような真理を論理で証明出来るらしい?
こんなギマンは無い!...頭だけで納得したフリは出来ても、ハートやハラは納得出来まい!
普遍性ということと普遍妥当性とは丸っきり違うことなのです。
ベルジャーエフは、それは、”精神的交わり”を失ったからだと言います。
精神的交わりとは、その訳だけではあまり伝わるものがありません。
これは、一つには端的に霊的交わりのことでしょう。思いを超えた神的な霊なるものとの交流。
さらには、それは、そのこととつながる、彼が”ソボールノスチ(この訳では”普遍調和世界”とある)と呼んでいる、自他の有機的交わりのことを指しているのでしょう。
いずれにしても、それは、神と人間の本源的交わりのことであり、このこと自体が普遍性とつながることを示唆していると言ってもいいでしょう。
これに根差した、学的哲学的論証というものは、あって然るべきでしょう。
問題は、哲学が全人的な有り様から切り離されて、学のための学に終始してしまうことにあると言えるでしょう。
そこに如何に緻密な論理の構築が成されようと、それは基礎を持たない砂上の楼閣の如きものでしかないのではないでしょうか?
ベルジャーエフのその反哲学とも取れる、”哲学らしからぬ哲学“は、本来の普遍性に根差し、それを指向する、”永遠の哲学“の再興に向けられていたのです。
そのことは、彼がロシア革命前、円熟期のほとんどを亡命者として送らざるを得なくなる以前に書かれた、初期の代表作とも言える、「創造の意味」(行路社刊)という書物の序章に伺うことが出来ます。
これがもう!...今日にまで及ぶ哲学界を根底から揺さぶる革命的な内容を含んでいるのです!
哲学に関心を持つ者なら必読と言えます! “本、買うの高い!“、と思う人は図書館で借りて読むべし!
読んだらきっと、満干の共感を得るか、頭が噴火するほどの反感で爆発するか、どっちかでしょう?!...中途半端ではいられない!(日和見根性なら読んではならない!)
「哲学は、いかなる意味においても学でなく、いかなる意味においても学であってはならない」
のっけからぶっ飛んでる...哲学というわが国で翻訳された通用語に従えば、これはもう、哲”学“の否定以外の何ものでもないではないか?!
この言葉は、ベルジャーエフを批判した、「彼の哲学はアマチュアの域を出ていない」という言葉を逆手に取れば、公認されている“プロ“の哲学者に向けられているのです。
「哲学者は、何故かくも学的たらんとするのか」これは、世間で認知されている哲学に纏わり付いている、高踏的、ペダンチックな、あのイヤミったらしい精神的態度の打破を意味しているのです。
学的哲学は、論理的思考を重ね、理論体系で固められ、常に論証によって真理(らしきもの)に導こうと図ります。私などは偏頭痛を引き起こすので、それを理解しようにも、読む気さえも起きて来ないのですが...
頭の論理だけで認識される、いかなる真理も私は受け入れることは出来ません。
それは、思いを超えておらず、どこにも落ち着くところがないから...安らぎを見いだせない真理などあるでしょうか?
この哲学の学的偏重の傾向は、ベルジャーエフによれば、精神の高み、深みから来る本来の哲学が有していた頭脳智と区別される、”智”の有り様を失ったためとされます。
「哲学は智を愛する。真の哲学の原動力は智である」
又、学的哲学を常に論証に駆り立てるのは、それが普遍妥当性を指向しているからだと言う。
何かの自然法則のように誰もが納得出来るような真理を論理で証明出来るらしい?
こんなギマンは無い!...頭だけで納得したフリは出来ても、ハートやハラは納得出来まい!
普遍性ということと普遍妥当性とは丸っきり違うことなのです。
ベルジャーエフは、それは、”精神的交わり”を失ったからだと言います。
精神的交わりとは、その訳だけではあまり伝わるものがありません。
これは、一つには端的に霊的交わりのことでしょう。思いを超えた神的な霊なるものとの交流。
さらには、それは、そのこととつながる、彼が”ソボールノスチ(この訳では”普遍調和世界”とある)と呼んでいる、自他の有機的交わりのことを指しているのでしょう。
いずれにしても、それは、神と人間の本源的交わりのことであり、このこと自体が普遍性とつながることを示唆していると言ってもいいでしょう。
これに根差した、学的哲学的論証というものは、あって然るべきでしょう。
問題は、哲学が全人的な有り様から切り離されて、学のための学に終始してしまうことにあると言えるでしょう。
そこに如何に緻密な論理の構築が成されようと、それは基礎を持たない砂上の楼閣の如きものでしかないのではないでしょうか?
ベルジャーエフのその反哲学とも取れる、”哲学らしからぬ哲学“は、本来の普遍性に根差し、それを指向する、”永遠の哲学“の再興に向けられていたのです。