人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ベルジャーエフ哲学の根底にあるもの

2022-09-03 10:50:48 | 人生の裏側の図書室
ベルジャーエフは、生涯の早い時分から哲学者たることの使命を感じていたらしいのですが、おそらく自分が周囲から哲学者と見なされることを快く思っていなかったに違いないと思います。
そのことは、彼がロシア革命前、円熟期のほとんどを亡命者として送らざるを得なくなる以前に書かれた、初期の代表作とも言える、「創造の意味」(行路社刊)という書物の序章に伺うことが出来ます。
これがもう!...今日にまで及ぶ哲学界を根底から揺さぶる革命的な内容を含んでいるのです!
哲学に関心を持つ者なら必読と言えます! “本、買うの高い!“、と思う人は図書館で借りて読むべし!
読んだらきっと、満干の共感を得るか、頭が噴火するほどの反感で爆発するか、どっちかでしょう?!...中途半端ではいられない!(日和見根性なら読んではならない!)

「哲学は、いかなる意味においても学でなく、いかなる意味においても学であってはならない」
のっけからぶっ飛んでる...哲学というわが国で翻訳された通用語に従えば、これはもう、哲”学“の否定以外の何ものでもないではないか?!
この言葉は、ベルジャーエフを批判した、「彼の哲学はアマチュアの域を出ていない」という言葉を逆手に取れば、公認されている“プロ“の哲学者に向けられているのです。
「哲学者は、何故かくも学的たらんとするのか」これは、世間で認知されている哲学に纏わり付いている、高踏的、ペダンチックな、あのイヤミったらしい精神的態度の打破を意味しているのです。
学的哲学は、論理的思考を重ね、理論体系で固められ、常に論証によって真理(らしきもの)に導こうと図ります。私などは偏頭痛を引き起こすので、それを理解しようにも、読む気さえも起きて来ないのですが...
頭の論理だけで認識される、いかなる真理も私は受け入れることは出来ません。
それは、思いを超えておらず、どこにも落ち着くところがないから...安らぎを見いだせない真理などあるでしょうか?
この哲学の学的偏重の傾向は、ベルジャーエフによれば、精神の高み、深みから来る本来の哲学が有していた頭脳智と区別される、”智”の有り様を失ったためとされます。
「哲学は智を愛する。真の哲学の原動力は智である」
又、学的哲学を常に論証に駆り立てるのは、それが普遍妥当性を指向しているからだと言う。
何かの自然法則のように誰もが納得出来るような真理を論理で証明出来るらしい?
こんなギマンは無い!...頭だけで納得したフリは出来ても、ハートやハラは納得出来まい!
普遍性ということと普遍妥当性とは丸っきり違うことなのです。
ベルジャーエフは、それは、”精神的交わり”を失ったからだと言います。
精神的交わりとは、その訳だけではあまり伝わるものがありません。
これは、一つには端的に霊的交わりのことでしょう。思いを超えた神的な霊なるものとの交流。
さらには、それは、そのこととつながる、彼が”ソボールノスチ(この訳では”普遍調和世界”とある)と呼んでいる、自他の有機的交わりのことを指しているのでしょう。
いずれにしても、それは、神と人間の本源的交わりのことであり、このこと自体が普遍性とつながることを示唆していると言ってもいいでしょう。
これに根差した、学的哲学的論証というものは、あって然るべきでしょう。
問題は、哲学が全人的な有り様から切り離されて、学のための学に終始してしまうことにあると言えるでしょう。
そこに如何に緻密な論理の構築が成されようと、それは基礎を持たない砂上の楼閣の如きものでしかないのではないでしょうか?
ベルジャーエフのその反哲学とも取れる、”哲学らしからぬ哲学“は、本来の普遍性に根差し、それを指向する、”永遠の哲学“の再興に向けられていたのです。
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本山博の神体験

2022-08-01 12:18:01 | 人生の裏側の図書室
宗教心理学者で宮司でもある、故本山博先生の「神秘体験の種々相」(宗教心理出版刊)という本を十年以上前に読んだきりなのですが、これ に”II“がつき、つまり続編があることをつい最近知り読んでみました
実は前作の方はほとんど印象に残っていません。それは、瞑想などの修行を通じて得られるという意識の進化、その種々相について書かれているのですが、本山先生のそのアプローチの方法は専ら精神集中などを伴う自力的なヨガ瞑想(宮司なのに何故か神道式の“鎮魂の法“には依っていない)によるものであり、その道とはほとんど縁が無い私にはあまり参考にならなかったからです。
又、そこで描かれる、神智学などとも通ずるアストラル、カラーナ(コーザル)といった通常の意識レベルを超えているとされる、各レベルについても、私は自分の意志想念でそうした境地?を目指したこともなく、果たしてそういう意識の進化レベルがあるのかどうかということさえ、疑問にも感じ、はっきりしたことは分からないままなのです。
ただ、それらのレベルは、修行によって到達可能なものであり、そこにはなお意志想念というものは、超えられていないであろうということは分かるのです。
ところがこの続編で主に描かれているのは、さらにそれを超えているとされる、プルシャのレベルについてであり、これは意志想念、思考のレベルを超えており、自力修行では到達出来ないとされているのです。(本山先生がどうやって到達されたかは定かではありません)
どうやら、それは思考を超えた純粋意識の開かれた領域らしい...
そして、この意識領域において神に出会い、神と合一の道が開かれるのだという...ああ、もうこうなると、おのずと意識が向いてしまうではないか!...と、思わず求めてしまった次第です。
前編なんかは参考にならないから、最初からこれから道が開かれたらいいのですよ!
そう、私は最初からプルシャの世界が開かれたのです!、って、そんなことは分かりません!
分かっているのは、そういうノボせた精神には、神の道は開かれないということです。
この続編にも、プルシャにあっては個体意識、自我意識というものは無いとある通りでしょう。
そこには、ヨガ瞑想のアクメに関わる、チャクラというものも無いのだという...従って、この続編はヨガ行者にはほとんど参考にならないと言ってもいいでしょう。
しかし、意識の進化とか悟りのレベルとかには、関心が無くて、神体験、神との合一には、意識が行ってしまう私には大いに参考になりました。
だから、私はこの本を、修行による悟りへの種々の段階の道というよりも、神体験の道として読んで、それでこの記事の表題にしてみたのです。
実は本山先生は、それをさらに超えた、仏教的な涅槃のような、絶対無というか、空的な全体しかない境地?についても言及されているのですが、実際にそういう境地に至らなくても、考えてイメージ出来るように、最近の悟り系スピで言われるように、全体とは一つにはなれません。空と一つになるということはあり得ない!...こういう世界については、すべての言葉は無に帰してしまい、何人もそれについて言い表すことは出来ますまい。
ただ、神と、キリストと、如来と一つになると いうことは言えるし、実際にそういう実感を持つことは出来るのです。
これについて、先生は、西田哲学から借りて“場所的個”とか難しい説明で、プルシャにも身体ともアストラル体、カラーナ体とも違った、ある種の“体的なもの”があるとされるのですが...私にはあるとも無いとも分かりません。
少なくとも、体的なものがあるからつながることが出来るのですが、そこに体的な限界というものも感じられませんでした。
そこで全体というよりも、普遍的なものとつながるという感じになったりするのですが、先の全体と一つになるというのは、この消息のことを伝えているものと思われます。
これは、あくまで私の感じを言ったまでですので参考に留めて下さるように...
あなたの真実を知りたければ、あなた自身があなたの神に出会い、直にお聞きになるのが一番でしょう。祈りをもって!...
そうです、自力修行では与り知れない世界のことは、思いを超えたものに祈るしか、開かれないのではないでしょうか?
こういうことにあまり触れてないのは、どうしたことなんだろうと感じてなりませんでした。
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「禅と福音」の本音

2022-05-07 10:31:59 | 人生の裏側の図書室
以前にも取り上げたことがある、ユニークな禅僧、南直哉さんがカソリックの神父、来住英俊さんと対話している、「禅と福音」(春秋社刊)という本を読んでみました。
私は、南さんの自分の内なる問題、実存に即して語る姿勢にとても共感しています。
きっと、この対話もそういう土俵の中で進められるのだろうと期待していたのですが...
まず、私は知らなかったのですが、南さんは過去にキリスト教(プロテスタント)に入る直前まで行った経緯があったことに興味を掻き立てられました。
しかし、その時牧師に「神が信じられないのであれば洗礼したって無意味だ」と言われ、そのことを留まったのだそうです。そこに神と人間の関係にリアルなものを感じなかったと!...
それでも、氏は今でもキリスト教に対し、あこがれを持ち続けているとのことですが...(”そうだったのか?!”...な~んて、一人合点しててもしょうがないですが)そのあこがれが何かについては明らかにされていません。それが氏においても、多くの求道者においても重要なことのように思えるのですが...氏にはどうも神などの超越的なものが、リアルに感じられないらしいことは、那辺に理由があるのかもしれません。
私はその牧師の言葉に対し、こう言いたい!...“神を信じようが信じまいが、自分を超えたものをリアルに感じられない洗礼など無意味だ!“と...
仏教者にもキリスト者にも、自己実存の本音に訴える言葉、そこから滲み出てくるような言葉が求められるのではないでしょうか?!
その南さんの、少なくとも私には本音が伝わる、仏教者としての諸問題についての発言に対し、来住さんのキリスト者からの発言はと言うと...
これが、全くつまらない!...正直、退屈です!
延々と世間一般に認知されている、スタンダードなキリスト教以上のものが伝わってこない、説明的な言葉に終始されても!...
私はそれを読んで、日本の精神文化にキリスト教が根付くことは永遠に無いであろうこと、否キリスト教そのものに未来は無いことを再認識しただけです!
私が聞きたいのは、人格を持たない“キリスト教の本音“(この章題は大ウソ!)でなく、キリスト者の本音なのです!
使徒信条を唱えなければ、三位一体の教えを信じなければキリスト教でなくなる?...なくたってあの息吹に与ることが出来ます!...それを欠いたキリスト教など何になるか?!
キリスト者でも何でもない私がエラそうに言う資格などありませんが、ここは南さんの“あこがれ”をもっと掘り下げ、それに肉迫しなきゃあ!...消化不良感が半端ありません!
後半は、倫理とか社会問題などに触れていますが、何か根本的なことが不明なままなので、あまりついて行けませんでした。
それにしても、南さんのキリスト教へのあこがれって何だ?(ご多忙中で、こんな日の当たらないブログなど読むヒマないかもですが、教えて欲しいです)もしかして、どっかで知らされているのかもしれません。でなきゃあこがれ自体を持ったりしないでしょう?...


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統派を超えたもの

2022-01-18 12:18:39 | 人生の裏側の図書室
先日、ある本を読んでいたらもう、驚いたのなんのi...何度も目がくぎ付けさせられてしまいましたi

「私たちの幸不幸を決定するものは、一面は境遇と見られ、一面は意識状態と見られるのであります。しかるに人は多くその境遇の方にのみ注意して、その性根(意識に根ざすもの)の方を忘れておるのであります」
「佛は我々の内にあるが中にはないのであります。佛は我の中にありという時には、我は佛より大きいものでなくてはなりません。...佛が我に内在するということは、我の内面にあるということであります。自覚の光に照らし出されて佛の中に現実の我を見出だす時、我々は佛の内在を感ずるのであります」
「超越するがゆえに内在し、内在するがゆえに超越する、それは常住真実の佛であります」
「人間の智には明らかに二種あって、一は知識といわれ、一は叡智といわれています。...真に己を知り、人間の理想を知り、自分のなすべきことに安んじて行ける叡智、それが智慧の光明であり、それはともすれば、何でも知っている学者にかくされ、何も知らない愚者に輝く光明であります」(金子大栄「帰依と行善」)

かくも、今の私の内面に響いているものを代弁されている方が居られたとはi...
実はこの本を読んだのはニ度目のことで、ちょうど六年前に読んだ時はさして印象に残ってなかったのです。
今の私だったら、これらの文章に触れて、絶対に看過などしてる訳がありません。この間に私の内面に著しい進境があったのでしょうか?...んなこた、多分無いと思いますよ。
金子大栄師は、清沢満之師の学統を継ぐ、真宗大谷派の宗教哲学者...と言われています。
私はかなり前、同じ門下の暁烏敏師の「更生の前後」という本を読んで感激したことがあったくらいで、同門の方のものは、ほとんど読んだことが無かったのです。
不明を恥じて言えば、あまり期待して読んで無かったのかもしれません。有り体に言えば真宗大谷派の御用学者というイメージで見ていたようなのです。
その後、いくつか同門の書物に触れ、そういうイメージはすっかり払拭され、どうしてどうして彼らは、我が国の宗教、哲学史の上に揺らぎない業績を残したということを感じ入るに至ったのです。ああいう人たちは、正にこの国においてしか生まれなかったと言っていいでしょう。
それはこの本からも感じられるように、その各々が、徹底的に自己に向き合い、よく追求、反省し、そこから導かれるものを表して行ったからでしょう。
少なくとも、私には上に紹介した言葉から真宗の何派、行としての称名念仏といったものさえ、超えたものを感じざるを得ません。
しかし、その一方で、真宗の伝統的教学や称名念仏に立ち返るという姿勢も見てとれるところもあるのです。
この辺りが、例えば禅における鈴木大拙師のような全く、その枠を超えたような生き方に比べて限界を感じてしまうところなのです。(これはその表向きの生き方、在り方のことであって、その内実的在り方のことを言っているのではありません)
どうしても彼らには、"真宗大谷派の..."という形容が付いてまわるようなのですが...やっぱり私には、"実存的光を追求し、それに照らし出されて生きる、一人の行学者"というものを感じ、共感してしまうことがどうしたってあるので(それが肝心i)、それでいいのでしょう。
先の理由でか、大拙師の本は何度も復刊され、大きな書店に行けば容易く手に入るのに、金子師のものは、過去のものになってしまったのか、ほとんどが絶版状態です。
しかし、私には忘れ難いものになったのは言うまでもありません。
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ラマナ.マハルシ「あるがままに」

2021-12-04 09:57:55 | 人生の裏側の図書室
「あなたが知りたいと探し求めているのは、他ならぬあなた自身なのだ」
(ラマナ.マハルシ「あるがままにーラマナ.マハルシの教え」/ナチュラルスピリット刊)

この本は、2005年に発刊されて以来、何度となく読み返されている愛読書なのですが、満を持して(?)取り上げてみたのでした。
何故、これまで取り上げなかったかというと、理由は簡単、多くの人が取り上げているからです。
なるべく埋もれた、世に知られていない書物を紹介したい、というヘソ曲がりのポリシーに反するのですが、"魂の読書"という観点からこれを外す訳には行かない次第なのです。
かように、この書は特に多くの瞑想修行者などの間では、バイブルともてはやされているのですが、そうでない私でも、読む度に"この書は私自身のことが記されているのだi"(聖書のイエスの言葉)、との感を強くしてゆくようです。
そうですi、先の理由だけでなく、広くキリスト教などに親しんでいる読者(私がそうi)にも読んで、共感して頂きたいという気持ちもあるのです。
ラマナの本は、3巻からなる大部のものもありますが、この本は項目ごとにコンパクトにまとめられているので、サッと読みたいところから読めるのが有難いです。
実はこの書、瞑想のノウハウのことは、ほとんど述べられてませんし、悟り、真我実現のための瞑想修行の意義といったことすら弾け飛んでしまうようなことにも触れているのですが、ラマナを知るに及んで多くの瞑想家は、その志を挫かれたのではないでしょうか?
だから、あまり瞑想修行と結び付ける必要はありません。
ここには又、知的概念からのみの理解というのはほとんど意味がありません。
分からないものは、分からない...分かろうとすれば、"あるがまま"のものを取り逃がすだけでしょう。
ただ、読み進んでゆくうちに、意識が自ずとラマナの言葉に惹き付けられるのが感じられます。自ずとそうなるというのは、本来性に導かれるということです。
私は最近、何が真理、真我であるか、ということよりもこの"本来性"というものに自然に赴いてゆくようになりました。
本来からあるものには、新たに獲得することも、到達することも出来ない...それは、そうでないものが消えることで、自ずと立ち上ってくる...
"この書を読んでいるのは誰か?、誰のことが書かれているのか?"
私が読んで、私が語っている...
この書は私のバイブルに違いありませんi

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