人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ラマナ.マハルシ「あるがままに」

2021-12-04 09:57:55 | 人生の裏側の図書室
「あなたが知りたいと探し求めているのは、他ならぬあなた自身なのだ」
(ラマナ.マハルシ「あるがままにーラマナ.マハルシの教え」/ナチュラルスピリット刊)

この本は、2005年に発刊されて以来、何度となく読み返されている愛読書なのですが、満を持して(?)取り上げてみたのでした。
何故、これまで取り上げなかったかというと、理由は簡単、多くの人が取り上げているからです。
なるべく埋もれた、世に知られていない書物を紹介したい、というヘソ曲がりのポリシーに反するのですが、"魂の読書"という観点からこれを外す訳には行かない次第なのです。
かように、この書は特に多くの瞑想修行者などの間では、バイブルともてはやされているのですが、そうでない私でも、読む度に"この書は私自身のことが記されているのだi"(聖書のイエスの言葉)、との感を強くしてゆくようです。
そうですi、先の理由だけでなく、広くキリスト教などに親しんでいる読者(私がそうi)にも読んで、共感して頂きたいという気持ちもあるのです。
ラマナの本は、3巻からなる大部のものもありますが、この本は項目ごとにコンパクトにまとめられているので、サッと読みたいところから読めるのが有難いです。
実はこの書、瞑想のノウハウのことは、ほとんど述べられてませんし、悟り、真我実現のための瞑想修行の意義といったことすら弾け飛んでしまうようなことにも触れているのですが、ラマナを知るに及んで多くの瞑想家は、その志を挫かれたのではないでしょうか?
だから、あまり瞑想修行と結び付ける必要はありません。
ここには又、知的概念からのみの理解というのはほとんど意味がありません。
分からないものは、分からない...分かろうとすれば、"あるがまま"のものを取り逃がすだけでしょう。
ただ、読み進んでゆくうちに、意識が自ずとラマナの言葉に惹き付けられるのが感じられます。自ずとそうなるというのは、本来性に導かれるということです。
私は最近、何が真理、真我であるか、ということよりもこの"本来性"というものに自然に赴いてゆくようになりました。
本来からあるものには、新たに獲得することも、到達することも出来ない...それは、そうでないものが消えることで、自ずと立ち上ってくる...
"この書を読んでいるのは誰か?、誰のことが書かれているのか?"
私が読んで、私が語っている...
この書は私のバイブルに違いありませんi

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知られざる神秘家ジョエル.ゴールドスミス

2021-07-30 10:28:23 | 人生の裏側の図書室
「健康や富、安全や保証、あるいは地上の平和を祈ってはいけません。神がそれ自身を真理として啓示することだけを祈って下さい」
(ジョエル.ゴールドスミス「スピリチュアル.ヒーリングの本質」/ナチュラルスピリット刊)

私は本を求めるに際して、若い頃の知識がごく浅い時分ならともかく、全く素描の分からない著者のものを求めることはめったにありません。
しかし、数年前古本屋で、その表紙が破れかかって、みすぼらしくなっている本を手に取って...「唯一つ祈るべきことがある。 ...霊的自覚を、聖霊の賜物を求めよ...内部から展開する瞑想が聖霊の賜物を現わす。このような瞑想は、あらかじめ定められた形に従うことは決してない。それぞれの瞑想が、霊的衝動が、流れ出て一つの形を作るのである」(「神を識る瞑想の法」/教文館刊.ー絶版ー)
という文章に接して、電気を受けたようなショックを受けて迷わず求めたのでした。
著者はジョエル.ゴールドスミス。経歴も何も紹介されておらず、一応米国人らしいということ、一読してキリスト者であること、所謂神秘家という括りをしても間違いないであろう、ということ以外何も分かりません。
とにかく、この著者は、私が精神的な道で感じていたこと、私の内に息づいていることを代弁しているように思えてならないのでした。
そして、(M.ベインの「心身の神癒」や、サンダー.シングやラマナ.マハルシのいくつかの書物などと同じく)この書物を読むこと自体が祈りであり、瞑想であるようにも(ここに祈りと瞑想の区別は見い出せない)...
又、その邦題(原題は「The Art Of Meditation」)にあるような"神を識る法"について、具体的なことは何も記されていません。
ただ聖霊、神の現臨を求めること...さすれば、自ずから開かれるであろう...もう、書いているだけで何かが始まる...
最近、上掲のように、ゴールドスミスの別の本が新刊で出され、訳者の高木悠鼓さんにより、ようやくその素描を知ることが出来ました。
スピリチュアル.ヒーラーという肩書きがあるらしいです。
しかし、その本にもヒーリングについての具体的な方法のことは書かれていません。"やり方"花盛りのその界隈にあって...
その"方法無き瞑想法"と全く同じく、神そのものを求めることに重点が置かれているのです。
"心身の不調和な状態、病とはそもどこから来るのか?...我々が意識の中で、そのすべての命の本源である神から切り離されてしまったからではないのか?
まず、意識されるべきは、そのつながりを取り戻すことにこそあるのではないか?
もし、何かの方法により病が癒えたとしても、本源から切り離されたままだったら、別の問題が起こってくるだけだろう...根本的な問題がそのままになっているのだから...
だから、異邦人のように(神が現存していないかのように)神に祈ってはいけない..."
と、いうようなことがここから汲み取れてきます。
ゴールドスミスは、キリスト者であり、聖書からの引用も多いのですが、あくまで"一つの窓"から、すべての本源につながる道を示しているように感じます。
キリスト教は、二元分離主義の最たるもののように見られているし、事実そういう言説も多く見受けられます。
しかし、ここに改めて私が感じることは、本来のキリストの道こそは、ノンデュリアリティそのものだ、ということなのでした...。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「超越と実存」を読む

2021-06-18 11:06:49 | 人生の裏側の図書室
「超越と実存」南直哉著/新潮社刊

著者は、曹洞宗の僧侶で、青森の恐山菩提寺の院代をされている方です。
まずこの題名ですが、私はここで何回、この"超越と実存"について書き表してきたことでしょうか?
宗教、哲学、スピ...あらゆる精神的な道において、このことに触れないものは無いと言っても過言ではないでしょう。
それは取りも直さず、その道に主体的に関わるならば、そうならざるを得ないということです。通り一辺の仏教の入門書、通史などならいざ知らず...
この書は、表向きそうした装いを持ったものですが、あくまで著者の"実存"世界より観たインド、ブッダの原始から中国、日本へと伝播した仏教の通史、といった趣向で書かれたものと言えるでしょう。
仏教書というより、そういう用語が頻出するし、哲学書として読んだ方がいいと思われます。
では、その実存とは何か?...言うまでもなく、それは自己と離れてそういう問いかけ自体起きてこず、又考えている私からは答えは見付けられるべくもありません。
従ってその私とは、「"何であるか分からない"ままに存在する"何ものか"」(同書)ということになり、実存とは著者によれば、「根拠を欠いたまま存在する事実」(同)を意味する、ということになるようです。
つまりは、この思われた私も、"本当の私"と想定されるような私も、定まった実体は無いということになります。これがブッダに始まる"無常"観というものでしょう。
では一方、"超越"ということについて著者は、如何に述べているかというと...私はいささか肩透かしを食った思いにさせられたのでした。
というのもそれは、実存的私の外に、神や霊的存在といった予めそうした"実体"をもった超越的な存在を想定したものである、と著者によって、多く批判対象として"予め想定"されているからなのです。
つまり、実存と超越とは、二元的に理解されているのです。果たして、本当にそういうものなのだろうか? こういう理解は"超越"され得ないでしょうか?
私が感ずることは別の機会に触れるとして、そういう"一つ"の理解は勿論あってもいいのでしょうし、何しろ、それは著者の"独断と偏見"と断っているのだから、尚更いいってことなのでしょう?
そうそう、本題に触れずじまいになりそうですが、そのブッダの原始仏教から大乗仏教が開かれ、変遷して行く過程で、大日如来(密教系)、阿弥陀如来(浄土系)などのように(天台の本覚思想のような定見になり得るものも含まれるとされる)、先の超越的な何ものかとして、観念が導入されることにより(著者は"超越論的パラダイム"と名付ける)、「仏教の核心的考え方を見えなくする」(同)ということを仏教の歴史を通して指摘しているのです。
そして、その無常観的核心に再び迫る気風を伝えたものとして、著者は親鸞と道元の二人を挙げております。
親鸞の「"信じる"行為そのものを脱落してしまうことによって行う念仏」(同)により、「信じる主体/信じられる対象」(同)という関係性を突破した在り方に言及されているのは実に明解です。
著者が思想遍歴の末、現在に落ち着いたとされる、道元の「座禅、修行という行為そのものへと脱落される」「行為が主体と対象を構成する」(同)ことで、行為によって縁起の意味が開かれるとされるところは、門外漢の私にはよく分かりませんでした。
一読して感じたことは、先に触れたことに関わるものですが、仏教に限ったことにとどまらず、自分の思い、行いを超えたもの(信じられ、想定され得るものとは限らない)についての言及がほとんど見られないのは、一体どうしたものか、ということなのでした。
ともあれ、著者の主体的な、実存に根差した仏教の歴史についての考察というものは、そういう例はあまり無いであろうし、意欲作であるのは間違いないと思います。



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真我と本性

2021-06-09 11:52:21 | 人生の裏側の図書室
玉城康四郎先生に「近代インド思想の形成」(東京大学出版会刊)という、絶版であり、約600頁に及ぶ大著でもあり、オイソレと手が出にくい書物があります。
この本には、有名なところでガンディーやタゴール、ラーマクリシュナなど、主として19世紀から20世紀にかけて活躍した、現代でも宗教やスピに関心のある人なら、大概どっかで聞かれたであろう、思想家の名前は出てくるのですが、大半を占めているのは、ヴィヴェカーナンダとオーロビンド.ゴーシュについての、その思想体系の紹介と考察なのです。
ラマナ.マハルシについては、それに比べてごく短いものですが、先生が書いたものでまとめて読めるのは、私の知る限りこの本くらいではないかと思われます。
ラマナの思想は、ご存じのように、前二者に比べて全く体系的でありません。それにその格好たるや、近代云々とは程遠いと言わねばなりません。
だからあまり筆が進まなかった?、訳でもないでしょうが...私はもう、この文章に接するだけで、何とまあ、ラマナの思想を短くまとめられているのか、と改めて感じ入ってしまいまして、そのことに限らずこれは、あらゆる精神的道に関わるキモのようにも思える、と言っても過言ではないくらいなのです。
久しぶりに読んでみて、まず先生は、ほとんどのラマナの訳書で、"真我"と記しているところを"本性"と訳しているのに注目させられました。
私が最初に読んだ時(平成8年夏)は、ただの言葉の言い換えぐらいにしか感じなかったものでしたが、その言葉から醸し出される、導かれる響きの違い(これは勿論、その日本語の語感のことを言っているのであり、原語ではどうなのかは分かりません)が感じられて、これは結構大きい問題のように感じたのです。
真我というと私などは、これを読んでる私は真なのか、偽なのか、真であるとはどういうことなのか、今の段階の上を目指さないとそれに与れないものなのか、といった風に思考を巡らして探ろうとしてしまうところがあります。
だが、本性となると...何が真で、何が偽であろうと、今はより本性的になっている、なってないかということは、さして考え巡らさなくとも、"本性的"(先験的?)に感じて来るものはないでしょうか?
私は、そこに意識の自然な流れのようなものを感じてならないのです。
これを踏まえると、ラマナが"真我探求の道"として示していた、"私は誰か?"、とひたすら尋ねてゆく道(これには、どうしても私には、尋ねる私というものが、超えられないという感じが残ってしまうのでした)という方法にも、新たな軸が開かれるようにも感じられてきます。
つまりは、意志的に尋ねようとしなくても、自然に本性に落ち着こうとする意識の流れにゆだねてゆけばいいのではないか?
このようであれば...「ただ、神のみを求めるならば、神はただちに私として"本性"として現れる」(ラマナ.マハルシ)
神に帰ることは、本性に帰ること...ラマナが真我探求の道と、もう一つ示していた、神にゆだねる、"帰依の道"も本来一つのものとして感じられて来るではありませんか?
ここには、もう、古代も近代も現代も無いくらいです。
玉城先生がもう少し存命で、近年この本が出された60年代中頃よりずっと注目を集めているラマナについて、どう考察されていただろうか、ということに思いが馳せてなりません...。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十字架とりて

2021-04-21 11:35:51 | 人生の裏側の図書室
「エス様は魂に言い給う、"十字架とりて我に従え"と、
ただこのひとことを、すべての人に。
十字架なしではたれひとり、たどり着けないのだ、目ざす地に。
されば雄々しく持ち上げよ、十字架を。
支えよ、全身をひきしめて。
汝の力耐えぬまで重くはかかるまい。
またたとえうちのめされ、ひざまずいても、元気出せ、恩恵こそ汝の分なのだ...」
(クリスティナ.ロゼッティ「十字架とりて」)

本を取り、ページをめくり、一読するなりその言葉につなぎ止められるようにも引き付けられてしまう、という経験はありますか?
19世紀英国の女流詩人ロゼッティのこの詩は、精神科医で、エッセイなど著述も多く残されている神谷美恵子先生の「うつわの歌」(みすず書房刊)という本に紹介されていたものです。
この本自体が、これ以外にも、多く割かれているレバノンの詩人ハリール.ジブラーンの著名な「預言者」その他の作品の紹介と解説、ご自身の詩、自身関わりの深かったフレンド会(クエーカー)に向けて書かれたエッセイなどが収められ、到底短い感想では表しきれないほど多様な、又深い内容になっているのです。
その中で、私にとっての最大の出会いはこの詩であったという次第です。
初めて読んだロゼッティは、米国の女流詩人エミリー.ディッキンソンと同じ年に生まれ、同じようにひき籠り勝ちの生活を送っていたそうです。
もしかしたら、同じように"見えない導き主"からその詩的霊感を受けていたのかもしれません。
神谷先生がこの詩に共感されたのは、おそらくは多く"十字架を負う"ということでイメージされる、"苦難に向かい、受け入れる、そこに主なるキリストの恩恵がもたらされる"、というところにあったと想像されます。
雄々しい使命感など持ち合わせていない私には、苦難を背負うことなど、とても...今日では何にもしてないのに、何も思わなくても、"見えない禍"が忍び寄って来ているではないか?
人生、生きること自体が苦難と隣合わせなのでしょうか?...苦難を通り抜けなければ、恩恵に与ることは出来ないのでしょうか?
しかし、そんなことも、あんなことも...思い巡らしているだけだったら、向こう岸へは渡れまい...
橋があるから渡れるのです。私が思う、行う以前に橋がかかっていたi
向こう岸に行かないと恩恵に与れないでしょうか?
いいや、恩恵なしでは、頑なにこっちの岸に囚われた思いから離れることは出来ないだろう...
思いを超えせしめるもの...十字架とは、私にはその象徴です。
それは多く小池辰雄先生からインスパイアされているものですが、それは聖霊と共にあるのです。
たとえ、人生にどんな苦難が待ち受けているとしても、十字架を受け入れれば、苦しみ多きこの地も、恩恵満ちるかの地に変貌することでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする