人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊界物語の裏読み

2019-09-27 11:50:59 | 人生の裏側の図書室
私はいつもスピ界隈に蔓延している、短絡的なオカルト的言説に迎合してしまう、思考停止の事態をいつも嘆かわしく思っています。
ここに見られるのは、精神的に他を支配せんとする者と、されようとする者との共依存というものでしょう。
こういう精神の貧困さ、その自由の欠如した在り方においては、人生の裏側のあの愛.平安.リアリティに導かれることは望むべくもありません。
こういうものは狂信と結び付くもので、大なり小なり宗教、スピの世界には付いて回るものなのでしょう。それは"信じること"に端を発しているものだから...
私が何故こういうことに言及しているのかと言えば、私自身がかつて新宗教M教団と関わっていたことで、その愚かしさ、恐ろしさを心底味わされて来たからに他ならないのです。
この自覚、その免疫が無ければ、本格的に精神の道を求めることも、人生の裏側を垣間見ることも無かったでしょう。
だから...前世だの霊界だのアセンションだののご託はすべて捨て去るべしi
とは言いません...。だって面白いじゃん。それなりに楽しめるし、タメにもなります。
私がそうしたものに対して否定的に言う場合、そうした思念に囚われたままでは、思いを超えた世界は開かれないからなのです。要するに囚われないということが肝心なのです。
そうでなければ...何を隠そう、私の図書室(狭い部屋にところ狭しと本の山が積んであるだけ)の一角には燦然と、霊界情報のマストアイテム?出口王仁三郎聖師の「霊界物語」80数巻が並んでいるのです。
これは本当に、すべての霊界情報のエキスがここに集約されてある、と言ってもいいほどの"代物"に違いありません。
これを紐解けば、あらゆるその種の書き物...例えばH.P.ブラバッキーの「シークレット.ドクトリン」、R.シュタイナーの「アーカーシャ年代記」などの宇宙的人類史や「竹ノ内文書」「ホツマツタエ」などの異伝古事記?、スエーデンボルグ、宮地水位などの一連の異界探訪ものなど、すべてが霊界物語に思えてくるでしょう。
どういうことかと言うと、そこで記されたものはすべて文字通りのものでなくて、それを借(仮)りてある象徴、表徴を表しているということ...見えるものを型(依代)として、見えないものを語るという"物型理"である、ということです。
"そこで書かれていることは本当なのか、どうか?"...なんちゅうヤボな論議だろうかi
これは、そこで出口聖師が示した道は、その大本教の分派として発祥した先のM教団が、強固な教条主義に傾いていった在り方と正反対だったと言っていいでしょう。
私が如何なるこの種の書き物に接しても、短絡的に信じ込んでしまうことが無くなったのは、この霊界物語に親しんでいたことが大きな要因だったと思います。(これは実はすべての形を持って表される文字、言葉についても言えるでしょう)
"真の神、元の神が現れる..."私の精神を呪縛した同じような言葉に接しながら、私は精神の自由を取り戻すことが出来たのです。
真の神、元の神とは私に直々の、元から生き通しの神のことではないでしょうか?
かつての私のように大マジメに、あっちの世界を夢想ばかりしている信者、井戸の中の蛙のような狂信者には、(そうでないテキトーな人にも)この霊界物語の拝読をおすすめします。
もっとも全巻読むには、何年かかるか、何十年かかるか、この世が終わってしまうかも分からないので、一巻だけでもそこに盛られている、けっして大マジメでない(?)精神に触れられるでしょう。
これは古事記の真解書ということらしいですけれど、案外「スサノオのオリジナル古事記(ダンテス.ダイジの命名)」の消息をうんと膨らませて記されているのかもしれないし、古事記は元々こういう、物語調で書かれた(古代文字でか?)ものなのか、あるいは言葉にも文字にも表せないことが記されている(それは我々の深層にあるのか?)のかもしれません。
いや、本当は言葉に呪縛されたバカマジメな頭を"真解"させるものなのかもわかりません。
まあ、「こんなん、アホ臭くて読んでられるか」って人も居るでしょうし、ミタマ相応に分かれるでしょうけど...
この書は最後の審判の書でもあるらしいですから...。
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廃墟のブッダたち

2019-07-27 12:00:04 | 人生の裏側の図書室
最近、伝説のスピ教師EOこと、故鈴木崩残氏の著書が復刊されているので読んでみました。
「廃墟のブッダたちー銀河の果ての原始経典ー」(まんだらけ出版)
(何かその周辺で、EO氏の"遺物のオークション"とか、訳の分からんことが取り沙汰されているみたいですが、このことと絡めているのかしら? 夏本番になることだし、頭がオカシクなりそうなことは、漫画の世界だけにしてもらいたいですi)
私は、95年夏、確かオウムのA教祖が逮捕されて間もなく、この本の続編だったか、読んだことがあったのですが、途中でやめてしまった記憶があります。
一連のオウムの報道により、何か世の中全体が、灰色の空虚な空気に包まれていたことなどが相俟ってか、暗ーい気分にさせられたことなどもありましたが、今度読んでみて思い出したのは、一寸著者の決めつけたような表現が所々で鼻についたということだったようです。
著者は、92年に大悟に与ったと言います。
全く思いがけず「それが起きてしまった」のです。
「そして、誰が死ぬ苦しみと生きる苦しみを生み出しているのか。
それは、私の観念だった。思考だった。
...
その時、どんな思考もないままで...
全く苦しんでいない何かがそこにいた。
それが、
"これ"(巻頭にある注によれば、"私たちの個体性を超えた、本性そのものを表現するもの"とのこと)だった。」
これには実に魂が揺さぶられそうになります。思考を超えた意識次元の消息がアリアリと伝わってきます。
そこに考えている自己はいない...当然のことながら「ただ在る」、「残るものは意識と"ただの存在性"だけだった」のです。
しかし..."ただ在る"だけというのは、本当にそれだけで片付けられてしまうことなのでしょうか?...と、このように私が感想を持つのは、思考のフィルターを通して言っているのですよi
そして、著者はここから唐突に「我々人類は、我々より高次の創造者(神?)たちの食用にすぎないのである」と、例の虚無的世界観へと読者を誘導して行くのです。
何でも我々が苦しむほど彼等の格好の餌になるらしいです。我々のすべての苦難の意味はそのためなのか?
著者がそうした情報を得たという、エイリアン?の棲息領域に踏み入れたという描写自体がそうなのですが、これは、著者が「ただ在る」という状態から、"思い描くことが出来る"地点、そうしている自分が居て、エイリアンの存在が認識出来て、上記したようなことが、「地球の二足生物の基本的性質の法則である」と認識出来る地点に、"着地して"そう述べているのです。
(私は"彼ら"と、自分を外において言い表せる宇宙の創造者のことなど知らないし、知りたくもありません。そういう食物連鎖みたいなことは、自然界のある面のことしか知りませんi)
ここには、多分に著者の日常の心的性向が反映されていると考えていいでしょう。
あなたも私も「ただ在る」としか言い様の無い世界に導かれるかもしれません。しかし、そこからこの現世に着地した時、そこから何を感じる、何を思うかはあなた次第なのです。
おそらくEO氏も、自説に容易く迎合したがる群れ、信者を作ることなど望んで無かったハズです。
しかし、上記のことに言及せずにおれない、パッションもあったのでしょう。
お気楽なスピ界に風穴を開けるという意図もあったのかもしれません。
しかし、この著は、上記のような、すぐハマりたがる者には、あまりに毒性が強いです。
ここで紹介されている、"死人禅"と称する瞑想法(私は、こういう意念を用いた方法は全く受付けませんi)のことども、取り扱い注意の一書です。






















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生命の詩人ブラウニング

2019-06-23 12:31:57 | 人生の裏側の図書室
「老いゆけよ、我と共にi
最善なるものは、まだ来ていない
人生の最後、最初に作られたのはそのためだ
我らの時は、主の御手にある
主は言われる"若い時は、その半分しか示されない、神に託せよ
そのすべてを見て、恐れるな!"と」
(ロバート.ブラウニング「ラビ.ベン.エズラ」)

私が初めて、まとまった詩集らしきものを手に取ったのは、19世紀の英詩人ブラウニングのもの(「ブラウニング詩集」、「男と女」.国文社刊)でした。
昭和55年夏のことで、その夏の東京は、ほとんど真夏のギラギラした日照に与ることが無く、例年に無い涼しい日が続いたのを覚えています。
その為か、青春時代(大学"5"年生)特有のそうした悩みなども手伝い、メランコリックな気分になっていたことが、この詩集に意識を向けさせたのでしょう。
とにかく、それまで霊だの、高次元だのと、精神が抽象的で、現実世界から浮いた感じになりがちで、無性に私の血肉に訴えてくるものを恋しくてたまらなくなっていたのです。
ブラウニングの名は、手島郁郎先生がその英詩講義を残しているので知っていました。(「老いゆけよ、我とともに」.手島郁郎文庫刊)
不思議なもので、哲学書では、ベルジャーエフが最初だったことと同様に、さして多く詩を読んでいる訳ではありませんが、私が読んだ中で、ブラウニングほど感銘を受けたものはありません。
これは私の進取性に富んだ、変節しやすい性格に反して、初めて感銘を受けたことをずっと忘れない、という心的傾向からのみによるとは思えないものがあります。
哲学と文学の違いはありますが、いくつか両者には共通点があげられます。一口に言えば、その根底にある思(詩)想が"動的"だということです。
動的...劇的、生命的...静的な、遠くから眺めているような、傍観するような展開はそこに見られません。
こういうものに接してしまうと、共感するか、反感するか、どっちかしかなくなりそうで、微温的、無関心で居られなくなります。
いささか、紋切りな言い方ですが、ベルジャーエフが、静的、主知的なギリシア的思椎よりも、動的なヘブライ思想に共感を示したように、ブラウニングも実在した中世のユダヤ系の哲学者、聖書学者ベン.エズラに共感し、上掲の詩を表したのでした。
ベン.エズラ=ブラウニングは、図式的な霊肉の二元論を立てません。
「すべての善きものは我らのもの、霊は肉を助ける、そうだ、肉が霊を助けるように」(同)
肉的な情動、悲哀の感情なども、より大きな御旨の中に抱かれてある...俗なるものの聖化...
こういう詩風は、私の特愛の「最高善」、「いま」などの短い詩にも顕著に表れています。
本当はギリシアでもヘブライでも、西洋でも東洋でも無いはず...抽象的に思い描いたものでない、アリアリと切れば、血が流れるようにも、具体的に生ける、生命に一歩踏み込み、与ることにあります。人生は思われたままではないのだから...
私が彼の詩に惹かれた理由もよく分かります。

それにしても、ブラウニング始め、19世紀の英詩人たちは、何と我が国の出版界から冷遇されていることでしょう。米詩人を含めてもこの頃が英詩の全盛時代だったと思われるのですが、散文、日記なども含めた、著作をまとめて読める「全集」、「選集」の類いが、ほとんど組まれたことが無いのです。(私の知る限り「ジョン.キーツ」くらいしかありません)
上記したものが、まとまった詩集でしたが、多分絶版でしょう。
ブラウニング夫人エリザベス.パレットは、私には幻の詩人で、未来の夫から熱烈な求愛を受けていた頃は、彼よりずっと高名な女流詩人でしたが、"エリザベス.パレット詩集"というのを、浅学にして一度も読んだことも、見たことも無いという始末です。
この夫妻は相互に影響し合っていた仲だとも言います。羨ましい...
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20世紀の賢者たち

2019-04-08 11:53:22 | 人生の裏側の図書室
ティヤール.ド.シャルダン(1881ー1950)。フランスのカソリック司祭、作家、生物学者。代表作「現象としての人間」、「神の国」(みすず書房他)
シモーヌ.ヴェイユ(1909ー43)。フランスの作家、思想家。「重力と恩寵」(春秋社他)「超自然的認識」(勁草書房他)
ニコライ.ベルジャーエフ(1874ー1948)。ロシアの哲学者。「人間の運命」(白水社)、「孤独と愛と社会」(白水社他)
マルティン.ブーバー(1878ー1965)。ユダヤ系哲学者。「我と汝」(岩波文庫他)、「ハシディズム」(みすず書房)
カール.グスタフ.ユング(1875ー1961)。スイスの心理学者。「心理学と錬金術」(人文書院)、「変容の象徴」(ちくま学芸文庫他)
ジョーセフ.キャンベル(1904ー87)。アメリカの神話学者。「千の顔を持つ英雄」、「神話の力」(ハヤカワ.ノンフィクション文庫他)
ラビンドラナート.タゴール(1861ー1941)。インドの文学者、思想家「ギターンジャリ」(岩波文庫他)、「人間の宗教」(レグルス文庫他)
鈴木大拙(1870ー1966)。日本の仏教学者。「日本的霊性」(岩波文庫他)、「禅の思想」(春秋社)

上記は、私なりに20世紀に活躍した、生没年を見てもお分かりのように、ほぼ同年代の、代表的な(私の独断もあるかも?)賢者と感じている人たちを思い付くままに掲げてみたものです。(代表作というのは、何かと接する機会が多いという意味です)
誤解しないで頂きたいのですが、"彼らこそが優れた20世紀の賢者である"、という意味ではありません。
勿論彼ら以外にも漏れている名前(我が国で知られていない人たちを含めたら、数え切れない程存在している)もあるでしょうが、彼らにはいくつかの共通項があるのです。
まずは、欧米の知識層を中心に認知されていること。
欧米偏重という観方も出てくるでしょうが、コスモポリタン的というか、世界的に知られているということは、20世紀においてはどうしても欧米に浸透していることが不可欠の要素かと思われるのです。
これと関連して彼らの中には、自他ともにキリスト者と認められている者については当然として、そうでなくとも西欧キリスト教に対して、一定の理解を持っている、ということは指摘出来ることです。だからと言って、我々読者は、彼らからキ教を中心に学ばなければならない、という話にはなりません。
キ教への肯定的、批判的言辞共々あっても、我々はキ教に限らず、自由に囚われを持たずに、諸宗教の根底に流れている、普遍的なあるものをそこに嗅ぎとることが出来るかと思われます。
そうです。彼らは皆それぞれの色合いで、その精神が普遍性に開かれていることを言明しているのです。
そして、"宗教哲学者"と言われている人も、そうでない人も宗教、哲学について多く語っています。
哲学については、彼らは狭義の意味での、論理を構築、体系化して(私のような頭ではお手上げのように)自説を展開する、"所謂"哲学者ではありませんが(ブーバーはかなりそれに近い、難渋な面がありますが)、彼らは何がしかの学者であることには変わりありません。
以前A.バンクロフトという著者の「20世紀の神秘思想家たち」(平河出版社)という本が出たことがあり、彼らもその括りで語られることも可能かも知れませんが、そこで取り上げられた、ラマナ.マハルシやグルジェフ、バパ.スブーといったグルー.タイプの人は、先の理由でここには入らないのです。クリシュナムルティ、シュタイナー、といった人らはどうなんだ...ライン上といったところか?
トーマス.マートン(メルトン)などは、東洋と西洋の橋を架けたという意味で正しく、この枠向きで、入ってもおかしくないですが、世代がもう一寸後だし、ずっとカソリックの修道士だったところがどうも...惜しいね、マートン"教授"i

欧米で彼らに対して、ある呼称で呼ばれているのか、どうかは分かりませんが、こう名を列記してみて、我が国のある筋の人にもピンと来る人も居るかも知れません。
要するに、私が個人的にベルジャーエフを知って以来、ずっと読書を中心に親しんできた脈筋の人たちのことを、多少のノスタルジーを込めて記したまでのことです。



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インドの神秘詩人カビール

2019-03-02 12:23:33 | 人生の裏側の図書室
「個我として一者が内部にいる。内部で光が輝いた」
「お前と私、私とお前、他に誰もいない。お前のような夫、私はお前の生みの親」
(カビール/ラマイニー2連)

中世インドの神秘家カビールの名はOSHO.ラジニーシの一連の講話でしばしば言及されていて、馴染みがあるのですが、我が国ではほとんど文献も無く、どういう人かはほとんど知らなかったのですが、遅まきながら最近その語録が邦訳されているのを知りました。
(カビール/「宗教詩ビージャク」/平凡社.東洋文庫)
大雑把な説明では、バクティ(献身、帰依)を重んじるヴィシュヌ派などのヒンドウー教と、西方より伝来したスーフィーを中心としたイスラーム教との橋渡しをした聖者ということになりそうですが、彼が活躍した15世紀頃の北インドはこの二派に限らず、様々な宗教思潮が交流し合っていたようで、それらの影響もおそらく受けてはいたのでしょう。
しかし、解説によれば「彼は心の内奥におわす"正師"以外の誰の教示にも従わなかった。そのため彼の信条と確信は、明らかに支えのない、彼自身が自分をなぞらえている神秘的な"火の鳥(不死鳥)のようなものだった」といいます。
この"正師"への純一無雑なる帰依というものが、その語録からヒシヒシと伝わってきます。
この"正師直伝"の教えに特定の教派、修行形態への固執など有り得ようはずなどありません。

「カルマもダルマもそこにはなく、言葉も生じず身体も生じない。
そこにはマントラ(呪句)もプージャー(供養儀礼)もない。
統御などの修習もそこにはなく、それを一元[と言おうか]それとも二元と[言おうか]」。(サバド43)
「サント(聖者)よ、こんな誤りが世間にあり、それで個我は偽りに赴く
第一に[人々は]不可分のブラフマンを誤って、[そのブラフマン]の影像を自分と思った。
影像に迷って意欲を起こし、意欲から慢心が[生じた]。
驕りをなして坐ざし、様々な道(宗教)を始めた」(サバド115)

カビールは、北インドの下層市民として生まれ、多く機織り職人として生計を立てていたといいます。
あたかも様々な異なる教えが、正師のもとに縦横自在にタペストリーのように編まれてゆく様を象徴しているようにも思えます。
しかし、世の常というか、カビール亡き後ヒンドウー教、イスラーム教との間で遺骨の引き取りを巡って争いが起きたとか...
そして又、カビール派の開祖として偶像視されるようになってしまいました。
人々はもっとも近いもの、そこからしか何一つ始まらないものを蔑ろにして、道をますます遠いもの、複雑なものにしていってしまうのでしょう。
しかし、正師は時、所を超えて何処に示現するとも分かりません。
この、見えるものが見えにくくなり、見えないものが見えてくる、という現代こそ、不死鳥の如く復活してくるのではないでしょうか?

恋しさに胸が震えるならば、火の鳥が羽ばたく...
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