私はいつもスピ界隈に蔓延している、短絡的なオカルト的言説に迎合してしまう、思考停止の事態をいつも嘆かわしく思っています。
ここに見られるのは、精神的に他を支配せんとする者と、されようとする者との共依存というものでしょう。
こういう精神の貧困さ、その自由の欠如した在り方においては、人生の裏側のあの愛.平安.リアリティに導かれることは望むべくもありません。
こういうものは狂信と結び付くもので、大なり小なり宗教、スピの世界には付いて回るものなのでしょう。それは"信じること"に端を発しているものだから...
私が何故こういうことに言及しているのかと言えば、私自身がかつて新宗教M教団と関わっていたことで、その愚かしさ、恐ろしさを心底味わされて来たからに他ならないのです。
この自覚、その免疫が無ければ、本格的に精神の道を求めることも、人生の裏側を垣間見ることも無かったでしょう。
だから...前世だの霊界だのアセンションだののご託はすべて捨て去るべしi
とは言いません...。だって面白いじゃん。それなりに楽しめるし、タメにもなります。
私がそうしたものに対して否定的に言う場合、そうした思念に囚われたままでは、思いを超えた世界は開かれないからなのです。要するに囚われないということが肝心なのです。
そうでなければ...何を隠そう、私の図書室(狭い部屋にところ狭しと本の山が積んであるだけ)の一角には燦然と、霊界情報のマストアイテム?出口王仁三郎聖師の「霊界物語」80数巻が並んでいるのです。
これは本当に、すべての霊界情報のエキスがここに集約されてある、と言ってもいいほどの"代物"に違いありません。
これを紐解けば、あらゆるその種の書き物...例えばH.P.ブラバッキーの「シークレット.ドクトリン」、R.シュタイナーの「アーカーシャ年代記」などの宇宙的人類史や「竹ノ内文書」「ホツマツタエ」などの異伝古事記?、スエーデンボルグ、宮地水位などの一連の異界探訪ものなど、すべてが霊界物語に思えてくるでしょう。
どういうことかと言うと、そこで記されたものはすべて文字通りのものでなくて、それを借(仮)りてある象徴、表徴を表しているということ...見えるものを型(依代)として、見えないものを語るという"物型理"である、ということです。
"そこで書かれていることは本当なのか、どうか?"...なんちゅうヤボな論議だろうかi
これは、そこで出口聖師が示した道は、その大本教の分派として発祥した先のM教団が、強固な教条主義に傾いていった在り方と正反対だったと言っていいでしょう。
私が如何なるこの種の書き物に接しても、短絡的に信じ込んでしまうことが無くなったのは、この霊界物語に親しんでいたことが大きな要因だったと思います。(これは実はすべての形を持って表される文字、言葉についても言えるでしょう)
"真の神、元の神が現れる..."私の精神を呪縛した同じような言葉に接しながら、私は精神の自由を取り戻すことが出来たのです。
真の神、元の神とは私に直々の、元から生き通しの神のことではないでしょうか?
かつての私のように大マジメに、あっちの世界を夢想ばかりしている信者、井戸の中の蛙のような狂信者には、(そうでないテキトーな人にも)この霊界物語の拝読をおすすめします。
もっとも全巻読むには、何年かかるか、何十年かかるか、この世が終わってしまうかも分からないので、一巻だけでもそこに盛られている、けっして大マジメでない(?)精神に触れられるでしょう。
これは古事記の真解書ということらしいですけれど、案外「スサノオのオリジナル古事記(ダンテス.ダイジの命名)」の消息をうんと膨らませて記されているのかもしれないし、古事記は元々こういう、物語調で書かれた(古代文字でか?)ものなのか、あるいは言葉にも文字にも表せないことが記されている(それは我々の深層にあるのか?)のかもしれません。
いや、本当は言葉に呪縛されたバカマジメな頭を"真解"させるものなのかもわかりません。
まあ、「こんなん、アホ臭くて読んでられるか」って人も居るでしょうし、ミタマ相応に分かれるでしょうけど...
この書は最後の審判の書でもあるらしいですから...。
ここに見られるのは、精神的に他を支配せんとする者と、されようとする者との共依存というものでしょう。
こういう精神の貧困さ、その自由の欠如した在り方においては、人生の裏側のあの愛.平安.リアリティに導かれることは望むべくもありません。
こういうものは狂信と結び付くもので、大なり小なり宗教、スピの世界には付いて回るものなのでしょう。それは"信じること"に端を発しているものだから...
私が何故こういうことに言及しているのかと言えば、私自身がかつて新宗教M教団と関わっていたことで、その愚かしさ、恐ろしさを心底味わされて来たからに他ならないのです。
この自覚、その免疫が無ければ、本格的に精神の道を求めることも、人生の裏側を垣間見ることも無かったでしょう。
だから...前世だの霊界だのアセンションだののご託はすべて捨て去るべしi
とは言いません...。だって面白いじゃん。それなりに楽しめるし、タメにもなります。
私がそうしたものに対して否定的に言う場合、そうした思念に囚われたままでは、思いを超えた世界は開かれないからなのです。要するに囚われないということが肝心なのです。
そうでなければ...何を隠そう、私の図書室(狭い部屋にところ狭しと本の山が積んであるだけ)の一角には燦然と、霊界情報のマストアイテム?出口王仁三郎聖師の「霊界物語」80数巻が並んでいるのです。
これは本当に、すべての霊界情報のエキスがここに集約されてある、と言ってもいいほどの"代物"に違いありません。
これを紐解けば、あらゆるその種の書き物...例えばH.P.ブラバッキーの「シークレット.ドクトリン」、R.シュタイナーの「アーカーシャ年代記」などの宇宙的人類史や「竹ノ内文書」「ホツマツタエ」などの異伝古事記?、スエーデンボルグ、宮地水位などの一連の異界探訪ものなど、すべてが霊界物語に思えてくるでしょう。
どういうことかと言うと、そこで記されたものはすべて文字通りのものでなくて、それを借(仮)りてある象徴、表徴を表しているということ...見えるものを型(依代)として、見えないものを語るという"物型理"である、ということです。
"そこで書かれていることは本当なのか、どうか?"...なんちゅうヤボな論議だろうかi
これは、そこで出口聖師が示した道は、その大本教の分派として発祥した先のM教団が、強固な教条主義に傾いていった在り方と正反対だったと言っていいでしょう。
私が如何なるこの種の書き物に接しても、短絡的に信じ込んでしまうことが無くなったのは、この霊界物語に親しんでいたことが大きな要因だったと思います。(これは実はすべての形を持って表される文字、言葉についても言えるでしょう)
"真の神、元の神が現れる..."私の精神を呪縛した同じような言葉に接しながら、私は精神の自由を取り戻すことが出来たのです。
真の神、元の神とは私に直々の、元から生き通しの神のことではないでしょうか?
かつての私のように大マジメに、あっちの世界を夢想ばかりしている信者、井戸の中の蛙のような狂信者には、(そうでないテキトーな人にも)この霊界物語の拝読をおすすめします。
もっとも全巻読むには、何年かかるか、何十年かかるか、この世が終わってしまうかも分からないので、一巻だけでもそこに盛られている、けっして大マジメでない(?)精神に触れられるでしょう。
これは古事記の真解書ということらしいですけれど、案外「スサノオのオリジナル古事記(ダンテス.ダイジの命名)」の消息をうんと膨らませて記されているのかもしれないし、古事記は元々こういう、物語調で書かれた(古代文字でか?)ものなのか、あるいは言葉にも文字にも表せないことが記されている(それは我々の深層にあるのか?)のかもしれません。
いや、本当は言葉に呪縛されたバカマジメな頭を"真解"させるものなのかもわかりません。
まあ、「こんなん、アホ臭くて読んでられるか」って人も居るでしょうし、ミタマ相応に分かれるでしょうけど...
この書は最後の審判の書でもあるらしいですから...。