人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

聖霊の愛

2020-03-20 10:04:10 | 人生の裏側の図書室
「愛こそは神界の構成源であり、彼岸にも通ずる霊質である。私たちを完成せしめ、霊界にも私たちを顕してくれる原形質は、この聖霊の愛である」
(手島郁郎「聖霊の愛」/手島郁郎文庫刊)

何度も言うように神のことは、主我的な思い、知的概念によっては分かりません。
真理というものが抽象的に理解されるだけでは生きたものにはなりません。
愛というものが抽象論で語られるほど、それから遠退いてしまうでしょう。
"霊味"というものを欠いたスピリチュアルなど、ただの言葉遊びに過ぎません。
人の生において真っ先に知らねばならない、それ無しでは生きることすら出来ないものは、すべての思いを超えたものなのです。
それがあまりにも自己に近すぎるためか、物心ついて主我的な思いに捉えられた我々は、それに間近に、真中に与るには、彼岸に求めるように、その手はかからず、ただ思い描くことしか出来ないのです。
しかし、その彼岸、超越界から我々に直に、時に閃光の如く、時に乾いた草に雨露が染み透るようにも手をかけて下さるものがあるi...それは聖霊。ピニューマ、プラーナ、ダンマ...呼び名はともかく、それは思いを超えたハタラキ。(否、それはどんな言葉によっても形容出来ないものでしょう)
彼岸を此岸に、神と人とを、人と人とを結びつけるものこそは聖霊です。
手島先生は「聖霊とは愛である」と高調してやみません。
然り。愛とは、別々だったものを一つに結びつけてやまないものだから...
先生の処女作にして、その生涯に渡り唱道されていたことが凝縮されている、この書名「聖霊の愛」とは、何と思いを超えた世界の消息を伝える文字だろうかi
聖霊については内外に、カリスマ運動を中心にした教会関係からいくつか書物が出されていますが、あまりに所謂欧米由来のキリスト教信仰、聖書信仰、神学といったものと結び付いていて、私はあまり惹かれなかったのですが、先生の著書はずっと愛読してきました。
その理由は、先生が説かれているものは、諸々の色が付着していない、本当の意味での"純福音"だからでしょう。
そして、それは言葉の深い意味での、"スピリチュアリティ"そのものを語る、数少ない"霊学"ー霊の学びを伝えるものでもありましょう。
いくらそう思おうとしても、行おうとしてもそうならない、そうさせるものにあってそうなるのです。それが聖霊の愛i
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

精神と現実

2020-02-15 10:50:38 | 人生の裏側の図書室
「精神こそ現実である...精神とは自由である。創造的行為である」(ベルジャーエフ「精神と現実」.著作集第五巻/白水社刊)

ここで取り上げる書物は、元々私個人に縁の深い、私が偏愛しているものを扱うつもりでいたのです。
ところがそれらは絶版になっているとか、諸々の事情で入手が困難なものが多く、一寸紹介するのを躊躇する気持ちもあったのですが、ここへ来て、極私的なことを書くという、当ブログの基本のコンセプトに帰ろうという風に傾いてきたのでした。
そうなると、この絶版になって久しいこの本を取り上げない訳には行かないというものです。
この書物は言葉の深い意味で、私にとっての"啓蒙の書"に他なりません。
啓蒙とは、暗い部分に光が照らされることです。それは傲慢にも誰かが誰かにそういうことを施すということではありません。
誰の所有にも、使役にも関わらない、人の思いを超えた、高きよりの光、即ち神的な、霊なる光を受けるということ...イリュミネーションに通ずるもののことです。
この書の前半部分は、この霊なるものについて述べられています。邦訳の"精神"という言葉に限定されると、著者の言わんとすることは伝わりにくく、英訳の「Spirit & Reality」の方が感じがつかめそうです。
つまりこの書は、"スピリチュアリティそのもの"に多く言及しているのです。こういう真の"霊学"というものの類書がほとんど無いというのは実に不思議なことです。
"いいや、スピ関連の本なら巷で溢れかえっている"、などと言うなかれi...例えば、心霊的なものの存在、霊界といったものの実在性などに躍起になって、霊なるものをモノとしてしか理解しようとしない思潮など、"スピリチュアルな物質主義"と言うべきではないですか?
真に霊なるものは、頭脳知、概念で捉えられるものではありません。エセ.スピにかかるとその観念に取り付かれ、奴隷となるのがオチでしょう。
これに反して霊のハタラキに与ることには、自由がある...それは思いが超えられるということだから。霊とは存在というよりハタラキなのです。
では前記の、私の啓蒙体験とはどのようなものかというと...
幼少の頃より時折どうもこの現実世界で生きていることに、その現実感が感じられないというか、夢を見ているように感じてならない、という精神状態に陥ることがあったのですが、この書を読んでいる時、突如私の内部に、"そうだったんだi、僕はああなっている時、思われたものでない、別の、夢でない現実を仄かに見ていたのだi"という直感が電撃的に閃いた、ということだったのです。
又、心に思い描いていた宗教的な共同体、教会というものが、現実に関わってみて、私の内部に生きているものとまるっきり異なった、外的な死んだ構築物のように感じるのは何故か?、ということなど(これはベルジャーエフの主要なテーマの一つ、"精神の客体化"という問題と関わるのですが、ここでは触れません)...これは本当に電撃的なことで、心身に震えを来してしまったほどです。
こういうことを真実に自己の内奥に受容され、根付くことになれば、そのこと自体が精神的目覚め、エンライトメントに導かれることになるでしょう。それは前記イリュミネーションと結び付くことだから...
元より私のこの読書体験は、その一歩手前の事態のことであり、あの変容の瞬間を予感させるものだったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魂の読書

2020-02-13 11:37:46 | 人生の裏側の図書室
何度か書いているように、昭和54年春、私は現臨ともいうべきものを恒常的に身に覚えることになったのです。
それは勿論今でもそうなのですが、その感覚は一端翌年夏、(自覚している限りでは)突如自然消滅してしまったのでした。
人が宗教であれ、スピであれ精神的な道の縁に触れる端緒となるもの、その媒体として、現代では書物との出会いというものが不可欠なものと思われるのですが、私のこの秘儀参入入門期間(?)に出会った書物たちとの縁というのは、取り分け忘れ難いものがあります。
これを揚げれば...「無者キリスト」(小池辰雄)、「解脱の真理」「心身の神癒」(マクドナルド.ベイン)、「精神と現実」(ベルジャーエフ)、大調和協会会主、命御口述による「大調和世界観開顕之聖業発祥」、「日月神示」、それを継承すると思われる、知られざる神示「要之神示」...
これらは、あの燃えるような意識の高揚感と、身震いするような(本当に震え出してしまったこともあります)一種の内的感覚と共にあるものです。
無論、これに限ったことではありませんが、このことはこの期間に特徴的だったことなのです。
理由はよく分かりません。ただその書き物を手に、否「取ってみよi」とばかりに何者かに促されるように取り、そしてページをめくるやいなや、「これをとくと読め、味わえi」とさらに畳み掛けてくるものを感じて、例のような事態になってしまうのでした。
私はそれらの書物から何を求めようとしていたのでしょうか? 何かの知識を得ようとしてないのは明らかなことです。
改めて考えるまでもなく、そういう類いの本などは一切ありません。
又、私はこれまで例えば、何かの瞑想方法であるとか修行マニュアルなどに関しての本はほとんど読んだことがありません。
もとより、そういうものに赴くことが無かったということなのですが、もし、その方法なりが思いを超えた、神的なものとつながることを企図したものだとすれば、手にして、読むだけで何かじんじんと感応してくるものを覚えさせられていたからなのかもしれません。
"それを読むことでああなってしまうのか、ああなってしまうから読まされるのか?...言葉を通して言葉を超えたものに会おうとしているのか?...確かに、知的概念を求めているだけなら、ああいうことにはならないだろう..."
ある人は"魂の読書"ということを言っています。
それは、全く誇張でなく、魂が求め、魂で味わうという読書体験というものはあるのですi
読むだけで精神的目覚めに与る、ということもあるでしょう。私自身その一歩手前だった、ということも経験しています。
読書は、ともすれば頭でっかちの知的遊戯に流れるだけのものになるかもしれませんが、頭だけの読書など、その半分も価値を見つけることは出来ないでしょう。
魂の読書は、あなたの人生を変えるかもしれないのですi
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プレゼンス

2019-12-22 10:46:09 | 人生の裏側の図書室
おそらくこのブログで、随所にその辺りのことが伺われるでしょうが、私には、近年欧米を中心に広まった、所謂ノンデュアリティには、同調出来るところと、出来ないところがあるのです。
およそ5年前、ブログを始めた頃は、ノンデュアリティにハマりかけていて、その少し前英国のその分野の騎手?の一人、ルパート.スパイラの著書「プレゼンス」(ナチュラルスピリット刊)を読んだのですが、正直あまり印象に残っていなかったのです。
しかし、最近読み返してみると...「私たちの真の自己は、気づいている現存(プレゼンス)です」
「自己が自己自身を知る光は、自己自身の光である...それは他の何ものでもなく、それ自身によって知られています」
「(現存にあって)幸福は自己の自然な状態であり、いかなる状況においてもそこにあります。...平安、幸福、愛は、私たちの自己に本来備わっているものです」
何だか誰かさんが言ってそうなことが、ふんだんに出てくるではありませんか?
ここで現存と表現されているものは、(多分)私が現臨と呼んでいるものと同じニュアンスのもののように思われます。
私の場合、"臨んでくるもの"という感じを出しているのです。
私はパクった覚えはありませんよ(笑)...何しろあまり印象に残ってないので...(私は主にラマナ.マハルシ、フランスの神秘思想家モーリス.ズンデルからパクっ...いやインスパイアを受けているのです)
しかし、スパイラ氏は、当世の非二元のティーチャーらしく、神(的なもの)、といった表現は使いません。(使おうとしない?)
私は、自己と神的なものは切り離せないものと感じていますが、彼は現存は、"自己そのもの"という風に強調しているようです。
そして、体、心にとらわれた自己、思われた自己は、見せかけ、幻想に過ぎない、といった、やはり当世流の言い回しも随所に見られますが、概して私には、彼から非二元原理主義者という印象はあまり感じられませんでした。
しかし、その思われた世界に"投げ出されて"生きている大方の人間は、どのようにしてその真の自己、現存に気づくことが出来るでしょうか?
そこでも彼は"直接的な道"の教師らしく、特定の修行法を提示しません。
ただ、"思われた、分離した自己には真実性がないことに気づいていけば、真実は自ずと立ち上がってくる"...らしいのですが、私のように偽我(?)がこびりついているような人間には、ちと難しいようです。
そこで、そういう人間には..."あったi"
"すべてを現存にゆだねる"ということにも、彼は終わりの方で触れているのです。私にはそれがもっとも肝心なことのように思えるのですが、"ゆだねる"ということには、(二元性という言葉を使いたくなければ)自己を超えた"他者性"というものが示されなければならないのではないでしょうか?
神的なものというのは、そういうニュアンスのものです。
もっとも、それは各々の機根、縁にもよるもので、自己探求的な道で現存に目覚められればそれでいいのでしょう。
なお、この本には続刊があり、そちらはまだ読んでおらず、ちゃんとした書評にならなかったのは(毎度のことながら)"悪しからず"、です。廃刊にならないうちに読んでみたいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神を待ちのぞむ

2019-11-27 12:05:01 | 人生の裏側の図書室
「もし永遠の救いがわたくしの前のこの机の前におかれていて、手をのばしさえすれば救いがえられるとしても、わたくしはその命令を受けたと思わないかぎりは、手をのばしませんでしょう」(シモーヌ.ヴェーユ「神を待ちのぞむ」/著作集第4巻所収/春秋社他刊)

最近、おおよそ36年ぶりで20世紀のフランスの女性思想家(主として神秘思想と社会思想)シモーヌ.ヴェーユの上記の著書を読んでみました。
ヴェーユはユダヤ系の人。しかし、同系の人で彼女ほど反ユダヤ的なことを熱烈に言明していた人を私は知りません。
反ユダヤと言ってもこの場合、ユダヤ民族排斥と結び付いてある社会に伝播する、所謂反ユダヤ主義のことではなく、聖書的世界から旧約的、ユダヤ的伝統を排除しようとすること、主としてキリスト教のユダヤ的源泉を否定するような言説のことです。
ユダヤ的なものと、もう一つローマ帝国に由来するものが、キリスト教の歪曲、腐敗の本質的な原因になっているとし、この二つの流れは、国家主義や民族主義と結び付いて純粋な宗教的在り方を変質させたのだ、と...
そして、彼女は古代ギリシア的伝統に、ユダヤ的伝統に取って代わるキリスト教の源泉を求めました。又バカバット.ギータや老子など東洋思想にもキリスト.イエスの教えに通底するものを見い出していました。
つまり、ヴェーユが戦っていたのは、純粋な宗教、精神的な道にはびこる、本質から逸脱した非寛容、独善的な在り方であり、代わってキリストの道に息づいている普遍性を明らかにしようとしていたのです。
「カソリックは普遍的でなければなりません」(同書)
カソリックの修道士J.M.ペラン(この著書は、ヴェーユのこの神父宛の書簡を中心に構成されています)との親交を通じて、ヴェーユに「洗礼を受ける」という意志が芽生え出したのですが、カソリック教会に「アナテマ.シット(彼は破門されよ)」という言葉で、異なる信仰を排してきた歴史があるために、ついにその門を超えることは出来ませんでした。
このことは、当然彼女の教会観とも深く関わってきます。
「キリスト教の肉化(教会の形成についてのキ教の伝統的な解釈として、こういう表現が用いられる)ということは、個人と集団との関係の問題の調和ある解決を意味しています」(同書)
ヴェーユの洗礼を前にしてのためらいには、見える教会と見えざる教会との相容れられない敷居が横たわっていました。
彼女の魂も又、私が親しんできた思想家たち...ベルジャーエフ、エマーソン、ティヤール.ド.シャルダンらと同じく見えざる普遍教会を志向していたのです。
しかし今の私には、ペラン神父がこのヴェーユの言説について「理知的な方向に傾き過ぎている気来がある」と述べている通り、どこか余所行きなところも感じなくもありません。
イエス.キリストの神...それはユダヤに源泉があろうと、ギリシアだろうと、東洋だろうと...いいや、そう呼ばれるものでなくとも、私が私でなくなるほどにも、あるいはあまりにも私自身であるようにも、直にあいまみえるものでなければ、人がそう言っているものでは、この魂はどうにもならないのではないか?
シモーヌ.ヴェーユには、確かにこの言い表すことの出来ない自身の霊的源につながる息吹きは伝わってきます。
ただ、他に理解を求めようとする時、客観的な表現を借りようとするあまり、理知的に走ってしまう傾向があったように思います。

私が36年前、どうしてヴェーユに共感をもったのか何となく分かりました。
キリスト教的なものに惹かれていながら、どうしてもその門を超えることが出来なかったこと...普遍なるものへの希求が始まっていたこと...見える教会の裏側に息づく見えざる教会の存在...
それは、私が初めて"人生の裏側"に踏み入れることになって、数ヵ月後のことだったのです。
ヴェーユの言葉には、私の内部に発揚していたものに触れて来ざるを得ないものを感じていたのです。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする