人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊的物質主義

2023-11-12 09:12:57 | スピリチュアル?
私は、例えば神的な現臨のことを書いたりしますが、それが何かの霊体みたいなものとして言い表したことなど一度もありません。
見た、見える訳じゃないので分からないのです。
それで、何でそういうものが臨むとか顕わになるのが分かるのか?...
こんなハッキリ分かることは無いんだから仕方がない!
現臨にある時、私という一個の人間が無くなるような感じにしばしばなります。
勿論、それで私の肉体が消えて、霊化したりなんかしませんよ(笑)
そこに何か体を帯びたような固定したものがあるかのように考える...これは肉体は無い、物質は無いと否定することでも同じことです。
それがあることを前提にしている。そうじゃない!(おや、言い回しが難しいな)
別にそれ(物)を否定することでもないのです。有っても無くても。
その他、霊界というものがあって、それは何段階もの層によって出来ているとか、何千年前の過去世はどうだったとか、何十年後にこういうことがあると予言で示されたとか...見えない世界にもそういう固定した時間というものがあるらしいです。
こういうものは、すべてこの世で考えられるものの延長に過ぎないことが分かるでしょう。そう思い描いていることを言っている訳です。
このような、考えている自分がこの世の感覚で、見えない世界(短絡的に霊界のことではない)のことを決め付けたように言い立てることは、差し詰め“霊的物質主義“とでも呼ぶのが相応しいでしょう。
いくら霊的なものとして語られようと、そういうものは何も伝わりません。返って思念に覆われ、囚われるだけです。
いつも感じて、そう言うように霊なるものに関わることは、思いを超え、離れるということなのです。
見てる世界、肉体の自分はそのままで、そういうことが実にハッキリと感じられるのです。
これはどういうことかと言うと、思考マインドでなく、意識次元が変わるということに他ならないのです。
そのままで、丸っきり変わってしまう!
それには、具体的にそれへの転換、シフトというものが無ければなりません。
それを宗教、スピの世界では、回心とか覚醒体験と結びつけて語られているのですが、そこを曖昧にしてずっと思念世界に囚われてるってーのは、一体?
きっと、そこのところをきちんと示す、導師に巡り会ったことがないのでしょう。
会っただけで分かるかもしれないのに!
導師は、肉体を持った人間とは限らないですよ!
霊体か?...いやだから、会えば、その御方が臨めばハッキリ分かるんだってば!
だから私は神的な現臨のことを見えない導師とか言っているのです。それが臨めば、あらゆる妄想ごとは終わるだろう!...

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神のみぞ知る

2023-07-10 10:04:04 | スピリチュアル?
近年、特別な精神的な修行もせず、そうした世界と関わらないような人たちも含め、突如覚醒体験のようなことに与る人が増えています。
私が日頃書いているようなことも、こうした背景が存していることも無い訳ではありません。
というより、何かに自然と促されているような感じも受けているのです。
これはですね...アセンションと言われているようなこと、人類的な規模で覚醒してしまうような事態になる日が近いということを物語っているのですよ!...
なあ~んてこた、分かりゃしません!...それは“神のみぞ知る“、というものでしょう?
確かに、私もかつてそのような想像に基づく思いにトラワレていたこともありましたし、このブログを始めた当初には、そんなような記事を書いたこともありました。
しかし、それは所詮来ない先のこと、神に聞かな分からないのです!
分からないことを、確言してしまうのは、妄想にトラワレているとしか言いようがないでしょう。
しかししかし、先のように、日増しに(特に前回も触れたような、すべてを照らす“照明“のような光とか...)強まって来ているのを感じるのは、多くの人も伝えているように確かなことでしょう?
これは又、このアッツイ日などに特に感じることですが、私に即して、より具体的に言えば、思考力が減退して来て、代わってその奥にある、意識の領域が顕わに、目覚めて来るような感覚です。
だからと言って、それで人類的な規模で、多くの人が覚醒体験に与るようなことになるかどうかは分からないですよ!
多くの人間は覚醒することなく、無意識状態、仮死状態に陥るかもしれないですしね(昔、そういう予言をしていた人も居ました!)...
これは、例えば人間の精神というのは、思考マインドしかない、それがすべてだと思い込んでいて、意識次元に全く開かれていない人間には、そうなる可能性も無いとは言えないのです。
いいや、そういう時にこそ、所謂守護の神霊というか、見えないハタラキによって然るべき導きが受けられる、ということもあるかもしれません。
しかーし、そういうものを頑なに否定している人はどうなのか?...と言ってたらきりが無い!
要するに、そういうことはそうなってみないことにゃ、分からないのです!
だからだから、私はいつも口を酸っぱくして言っているんです!
意識次元を開かなければならない!、神に意識を向けなければならないんだ、と!...その日、来る日のために!...
いや、そうじゃないんだってば!...その日が来ようが来まいが、そういう在り方は確信をもって、すべての人に推奨したい気持ちを持っているのです。
そこに、愛、平安、リアリティがあるから!...分かりきったことです!
目がまだ黒いうちでも、白目を向くことになっても(?!)...
仮に、思考がマヒしてしまうことともなれば、“私は高次元に移行するんだ!“、なんて妄想することも出来なくなりますよ!...見えない導きにゆだねるしか無いのです。
だから...来ない先のことは、“神のみぞ知る“のです。
この言葉の重みを感じ取ってもらえるでしょうか?
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カルマのことなど知ったこっちゃない!

2023-06-05 09:28:37 | スピリチュアル?
私がチョイと知ってる反面教師画伯は、いつもトンデモなことを書いているのですが、これにはホントに驚きました!
“覚醒するには、カルマをすべて清算しなければならない!“、のだそうです。
覚醒に与るような人とはどういう人なのだろうか?、この人らにはカルマが全然無いとどうして分かるのだろうか?、誰が覚醒に与れるのだろうか?...
言うまでもなくこの御仁は、誰かが言ってることを真に受けて、そう信じ込んでいるだけなのです。
40年以上もの間、五井先生を信奉していて、それに則った修業をしているらしいのですが、五井先生がそういうことを言っていたでしょうか?
ずっとそういうことを信じ続けていたというのか!...そして、覚醒することを目指しているのか?、自分でやって出来る、と!
迷った人間は、迷ったことを周囲に拡散してゆきます。何というカルマの流転だろう...
まず、そういう先入観、固定観念に囚われていること自体、カルマの呪縛を受けていることを知らねばなりません。この他陰謀論、人類の多くが淘汰されるという予言、生まれ変わりなども同様です。
そうそう、カルマは前世から持ち越されているという。...五井先生も前世のことを言っていたのは確かなことですが、それは、個人の力ではどうにもならないもの、という宿業観を強調したためでもあったと思います。
私は勿論、カルマそのものを否定している訳ではありませんが、自分で消そうにもどうにもならないし、何のカルマがどう作用し、消えたかなど考えたって分かりゃしません。考えるだけ無駄でしょ?
それより、そういう無駄な想念、トラワレから自由になることの方が重要なことでしょ?
五井先生は、思いは常に神の方に向け、入れるということを重点に説いていたのではなかったか?
この御仁、ずっと自分が為そうとする思いから抜けることが出来ないようなのですが...それがカルマの何たるかを物語っているのでしょう。
祈るのは自分、カルマを消そうとするのも自分、霊的に進化し、覚醒、悟るのも自分...自分の力でどうともならないことは、自分を超えたものに全託するしかないのだが...全託するのも自分!
五井先生の道から脱線して、カルト集団にハマることこそは、大きなカルマなのではないか?
すべてのカルマを清算しないと、って!...ま精々、自分の足下をよく注意して歩くことですよ!..アリンコを踏みつぶすとも限らないので!
ほとんどの人間は、そんな神経症のような思いから自由に生きているのです。
カルマのことなど知ったこっちゃないのですよ!
勿論、悪いことをすれば、悪いムクイがある、なんてことは子供だって知ってることですが...
諸々の思いから自由に、トラワレ、障りなく生きたい、とは誰しもが願っていることでしょう。
思いを超えたものを頂くことは、どんなに自由に与れることでしょうか。
自分で覚醒しよう!、などとたぎるような思いからも自由に!
そうすると、逆説的に目覚める時には目覚めたりする、かもしれない?
それで、カルマが解消されるかどうかは知りません。
しかし、少なくとも、カルマに纏わるトラワレから解放されるのは確かなことでしょう!

いや、だからどう考えても、“カルマを解消しなければ!“、という方向軸とは逆なんだ!
という訳で、また一つ反面教師殿から貴重な学びを受けることが出来ました。
有難う!(皮肉じゃないよ!)


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人間とスピリチュアル

2023-01-18 10:02:52 | スピリチュアル?
伝統的宗教にあっては、スピリチュアル、霊なるものと関わりを持たないものなど皆無と言っていいでしょう。それ無しにどこに存在理由があるでしょう?
仏教は、お釈迦様は、神や霊について語らなかったではないか?、という向きもあろう...冗談じゃない!...それは言葉のロジックに囚われているのです。そうしたもの抜きにどうして思念が滅せられたり、解脱などということなどあり得るでしょうか?...自分自身のことに即して考えれば分かりそうなことではありませんか?
神、霊...それはただの言葉に過ぎません。ここでは言うまでもなく、我々の思いを超えたもののことを言っているのです。
仏教的には”ダンマ、妙なるもの”、というものがまさにそれでしょう。そしてブッダの慧眼は、それらを実在論、実体論的に説かなかったところにあったと言えるでしょう。
然るに、現今の所謂”スピリチュアルもどき”は、神の、霊の実体に囚われ、思念世界に閉じ込められて、思考停止に陥っている有り様ではありませんか!
一方、やはり精神的な世界と関わる哲学の世界はというと...近現代の哲学は絶えず、論理的思考を巡らし、その帰結に導くことが主流とされているようです。そんなもの、頭の中の抽象的な観念だけで帰結されたって、我々の実存はどこにもオチるところなどありませんよ!...論理のための論理、哲学のための哲学など、ヒマ人の知的遊戯にしかならないでしょう!
思考を超えたものを指向せず、結び付かない哲学などやはり存在理由がありません。少なくとも私には!
かように、我々の精神の道は、思考停止に陥るか、観念の堂々巡りにハマるしかないのでしょうか?
自分自身、自己実存に即してみられよ!...来た、キタ~ッ!
ああ、もう!...どちらの無駄ごとも...そんなヒマは無い!...神、霊なるものの現臨の前では!
考える私が居て、スピリチュアルな世界があるのではありません!
我々一人一人がスピリチュアルな生きものそのものなのです!
万物の霊長、霊の止まるもの、霊止(ひと)なのです!
そもそも我々の精神というものは?...(英和辞典を引くべし!...)
人間性の復興ということが盛んに言われておりますが、それが見失われたのは、本来のスピリチュアリティが見失われたから、と言っても過言ではないでしょう。
私はその復権を願わずにおれません!
それは、神の顕現への願いと一つのものなのです。


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スピ界は無駄だらけ!

2023-01-16 10:06:57 | スピリチュアル?
度々書いているように、私は常々スピリチュアルなことは、極めて現実的なことであると思っています。
否、多くの人が現実と思っているものは、まんま思われた現実に過ぎないのではないでしょうか?
その諸々の思考マインドで覆われた世界を切り開くものこそは、スピリチュアル、霊なるものではないのか!
然るに、何とスピリチュアルと呼ばれている世界には、空想、妄想、幻想で溢れかえっていることか!
この世界には、その思考の支配する世界に対して、開かれたものと、閉じられたものとがあることを知っておく必要があります。
現状では大多数は後者のイメージで語られているのでしょうが、そのいずれに我々の精神が導かれるかを巡り、そこには天と地ほどの開きがあると言わねばならないでしょう。
だから、同じスピリチュアルという呼称を用いるのは、憚るものを感じてなりません。
後者で取り沙汰されることは、霊界、幽界、アストラル界、エーテル界、過去世、輪廻転生...ほとんどは誰かが言っている通説の受け売り、追従に過ぎません。
追従者、即ち信者の実存的現実からはかけ離れた空想観念ばかりが、大手を振って語られているのです。
何ら実証されてもおらず、自分で確証など持ち得ないことであるにも関わらず、その多くが断定口調で語られる...空想、妄想が事実であるかのように、脳に植え付けられる...自分が妄信するのは勝手でしょうが、始末に負えないことには、対外的に拡散せずにおれない衝動に駆られ、空想世界の住人が後を絶たなくなる...
種々の異界を通らないと、悟りに至らないと通説に追従し、あるいは体中のすべてのチャクラ(霊的なチャクラもあるらしい)を開かなければそうならないと、ヨガ行者(チャクラ云々は、彼らの間に伝わる通説)でもないのに囚われる...(もしかしたら、そういう事実もあるかもしれないが、そういう事例を私は寡聞にしてほとんど聞きません)確証も無いのに、いつたどり着けるかもしれない修行をし続けなければならないとは!...全くご苦労さんなことではないか?!
このような空想、妄想に囚われることは、実に無駄なことばかりではないでしょうか?
現存しないことを思い描き、膨らませ続ける...多いなる無駄と言う他ありません。
回り道、迷い道、”よこさ”の道を歩むために諸々のことが考え出されているようではないか?
それは神ではなく、誰かが言ってる、書いてるだけのことなのです!...神ならぬ思凝りなのです!
精神的覚醒、悟りなどについても空想ごとで語られる始末です。
それはまったく持って、かかる睡眠状態から目を覚ますこと以外の何ものでもないではないのか!
それは、ありのままの自分を受け入れることからしか始まってこないでしょう。
その時こそ、スピリチュアルなことは、実に現実にあることに目覚める...かもしれない?
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