人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊界の真相?

2022-11-26 09:48:01 | スピリチュアル?
”人生は見たまま、思われたままで出来ているんじゃない、その裏側には見えない、思いを超えた世界が広がっている...“

と、言うようなことをいつも書いている訳ですが、その“人生の裏側”とは、所謂霊界のことか?と、短絡的に思う人も居るかもしれません。
そういう人は、霊界というものは、実在しているんだ!、と決めてかかっているのでしょうが、霊能者でない私には、有るとも無いとも決めつけれないのです。
少なくとも、見てきたようなことは言えません!、だってそれは見えない世界なんでしょう?
ただ、いくらか固定観念に譲歩して(?)、理解の一つとして、”霊界の存在を借りる”ことは出来ると思うのです。そういう表現を借りると言ったらいいでしょう。
言うまでもなく、分からないからと言って、霊界、ないし死後の世界などを否定するつもりは全く無いのです。否定も肯定も出来ないというのが本当じゃないですか?
私も出口王仁三郎師の「霊界物語」を読んでるし、又「日月神示」なども...これらに多大な影響を与えた見霊者、エマヌエル.スエデンボルグなども...私はそのあまりにも恣意的に、歴史上の誰それは地獄に落ちている、だのと語る表現にヘキエキしたことがありましたが、あまりトラワレを持たずに読めば結構面白いと思いますよ。
スエデンボルグは、至るところで”神は一なるもの”、ということを強調しています。キリスト教の三位一体の教義について、それらは”父、子、聖霊”の三つの別々の位格がある訳じゃなく、すべて一なるエホバの神の表れと言っています。
私はこれは、”霊界”ではこのように、神は一なるものとして、分離したように認識されないということを言い表しているように感じました。それは、そう感じている自己と分離していない、ということでもあるのですが...
その割に、例えばルドルフ.シュタイナーでも同様なのですが、その表現はあまりにも、“見てきたよう“過ぎるというか、客観的筆致に終始しているところがあります。
“この世“の一風変わった情景を思い描いたように...
典型的なのは、“霊界は何段階もの階層を成している“、なんて言うのがそうです。
これについて、ベルジャーエフが言った、“階層という概念は現実世界にしか適応出来ない!“、というのが本当ではないか?
いや、そもそもが霊界については、同じくベルジャーエフが言うように、象徴、表徴を持ってしか言い表すことは出来ないのでしょう。
だから、それを超え、無視して客観的実在のように、“霊界の実在“を観念で決めつけることなど出来ないのです。(この意味で、寓話、神話という形を借りた、“霊界物語“などがそれを表現するに適していると言えるでしょう)
観念で分かったつもりでも、現界から一歩も超えることは出来ないのです。
要するに、見たまま、思われたままの表側の世界を超えなければ、裏側の世界は開かれないのです!
“段階を超える“、というのは、この大きな峠のことしか私には感じられません。どのくらい大きいかというと...自分の力では到底超えられないくらいです!
だから、自分で超えたというのは、きっと中途の段階なのでしょう?
“分かった!、それは、幽界か?”、って?...そういうのと霊界の何段目とどう違うのか、私にはテンデに分かりません!
何で、私が霊界なんていうものを持ち出したくないか?...メンドクサイからに決まってるでしょ!...

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本来のノンデュアリティ?

2022-11-06 10:02:20 | スピリチュアル?
最近の私は、盛んに”何々と何々は、切り離すことは出来ない!”、ということを言ってますが、それに触れて、”ハハーン、この人は、ノンデュアリティの人なんだ!“、と思う方もおられるかもしれません。
そういうことを言っているには違いないですが、そこは世に言うノンデュアリティ、非二元の道とは“切り離して”もらわないと...私はどんな思想的立場、学派、宗派からも自由でありたいんですから...
もっとも、ブログを始めた一時期、ああいう道にカブレていたことは認めます。だけど、それは到底、心から首肯出来るものじゃなかったのです。
大体、その宗派の人たちがこぞって“私は居ない”、“すべてはストーリー”、だとお題目のように称えていたのが、アタシャ、もうムシズが走るようで受け付けないです!
“そんな宗派などない!”、と彼らは言うでしょうが、このこと自体がそれを浮き彫りにしてるじゃないですか?
ああいう教えを説く教師が居て、それに追従する信者たち...この構図がもう、本来直接的な道を指し示すはずのノンデュアリティから逸脱しているのです。
それは、本来一人一人の実存と”切り離されるものではない!“、はずなのです!
その説かれる内容が、一元的だろうと、二元的だろうと!...
実存的在り方がそのいずれかに分けられてしまうこと自体、その分離化の最たるものではないか?
”神は、自己と別在する二元的存在である!、元々悟っているのだからそういうものを借りる必要はない!”...すべて己の観念で完結してしまう世界、それを”信じること“、思念だけが支配している世界...数多の宗教がたどる道と何ら変わりがありません。何たるギマン、茶番であろうか?!
私の実存に照らして、強調せざるを得ないことは、その、ぶ厚い観念の覆いを突き破って、二元(と考えられている)の彼方から、実存に直接タッチしてくるものがある(一元化?)、ということです。
自分の思いを超えたものには、それにゆだねなければなりません。
多くの非二元論者が説く、“自分はない、全体しかない!“、という果てしなく広がっているだけの空的な全体には、どうにもゆだねようがありません! ゆだね...させるものがあるのです。
この、私がよく現臨と呼んでいるものにある時、それは空々漠々たる全体のようには感じられません。ある局限的なものとして私に直に関わる何かでありながら、そこにはどこにも際というものが見当たらない、無限性も感じられる...そこに何か自己の“ますがた”のようなものが感じられたのです。
一元であって二元、超越的であって内在的...相対世界を生きていて、絶対的なものを内に根差して生きるもの...人間存在とは、相反するものであって、切り離されないものの極点なのではないでしょうか?!
これが当たり前の人間というものなのでしょう(裏を返せばこんな当たり前でないものは無い!)。
言うまでもなく、ここでは、生きている人間が、生きている人間のことを、生きている人間のために書いているのです。何ら特別なことはありません。
特別な教えも理論もメソッドも..._みんな、一人一人の私を、つながり合って生きているのだから...

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カルト思考を生み出すもの

2022-08-21 10:48:02 | スピリチュアル?
私はいつもカルト思考について批判的なことを書いています。
今、盛んに取り沙汰されているカルト宗教、安易な宗教、スピ依存のこととか、こういうことは、すべて私にも身に覚えがあるからこそ書けることなのですよ。自分の問題と切り離されない訳です。
そう、私にもカルト思考にハマりかけていた時期があったのです。
それも、いつも書いている昭和50年代の学生時代の頃じゃなくて、20数年前のことです。
この頃私は、大阪で主に営業の仕事をしていたのですが、不景気でかなり傾き出したので、副業でバイトをしていたのです。
それも不安定な職種である上に、職場の雰囲気にも馴染めず、物心ともに悩みを抱えてしまい、世の中の重圧というものを常に感じる日々が続いていたのです。
そうなると、この現実世界のことが何だか呪わしいものに感じ始めるようになります。
陰謀論の本を熱心に読んでいたのもこの頃です。コールマンだかの“300人委員会が世界陰謀の黒幕だ!“、とかナントカ?...“そうだったのか!“(笑)
ただ、真偽の確かめようのないことをもっともらしく書いてあるだけなのに...
実例がいっばい載っているではないか!...そう、これにコロリと引っかかってしまう!...意識が外向きになっているので、客観的事実っぽいことが即真実のように思えてしまうのです。
これに輪を掛けたのは、“まもなく呪わしき世界は終わりを告げて、新しい光り輝く新時代を迎える!“、という...そう、“アセンション“問題です。それは、どうも2012年のことではないらしい?...
浮世はつらいんだ、そんなに待てない!...げっ!、2001年7月!、後1月、2年!、早すぎない?
これは、ゲリー.ボーネルってチャネラーの説です。ただそういうこと言ってるだけなら、引っかかりませんよ!
しかし、これにゃあ、ぶったまげた!...世界中すべてに光の雨が注ぎ、それが我々の意識に一大変容をもたらす!...数万年ぶりに地球は、フォトン.ベルトなるその光の圏内に突入するのだ、と!
これより、数年前Tさんという知人にテキトーに話していたことが、にわかに現実味を帯びて来たではありませんか!...その渦中にある時、人類は仮死状態に置かれるであろうこともソックリ!...屋内に避難すればいいって?、バカを言っちゃいけない!、それはすべての物質、精神をも透す、光子、霊子なのですぞ!
ただ、環境破壊によって地球を取り巻く領域が生物圏からヌース圏へと移行するというテキトーな持論とは違いますが、理屈づけは何だっていい、世界的規模の聖霊のバプテスマを迎えるってことなのです!
“これは大変だ!、皆に知らさなきゃあ!“、実際にごく一部にでしたが“檄文“を送りつけたくらいです!...全く狂気の沙汰という他ありません!
しかし、それも当の2001年7月の某日には、すっかりトーン.ダウンしてしまい、その日はあまりの猛暑に仮死状態に陥りそうになっただけなのでした。
光を受けた実感はありませんが、私の意識状態も変わっていたのです。
陰謀の黒幕のことなどどうでもよくなり、目を覆う黒い幕が取れたようになりました。
これは、安定した副業、いい雰囲気の職場に恵まれたからです。
“ああ...肩の上にのし掛かってた重たい鎧も取れた!、この世に生きるってすばらしいことじゃないか!、浮世はつらいかもしれないが、何もこちらから見限るようなことは何も無いじゃないか?“
このように、人がカルト思考にハマりやすい時というのは、精神が負の状態になって、戦々恐々と余裕が無くなり、環境とか自己の外部世界にばかり意識が向けられがちになるようです。
自己実存に向けられることなく...自己という現実。それが現実逃避につながるのです。
あの頃は、それがどういうことかすら分からなかったようです。
自己の現実、実存?、そんなコ難しいことにゃ、意識が向かわない訳で!...
や!...その現実あらしむるものが、意識が向いたかどうかという間に臨んだぞ!
それが何かは分からないが...この現実をよそに、この現実世界も、来るべき?聖霊の新時代も無いだろう...
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霊的な黄金月間

2022-08-15 10:00:57 | スピリチュアル?
最近、ライオンズゲートという言葉を初めて聞きました。
何でも異次元のゲートが開かれて、霊的な恩恵に与ることが多くなるのだとか...しかし何で八月八日なんだろうか?...お盆の頃じゃダメなんでしょうか?
この頃は我々日本人には、あの世とこの世が一年でもっとも接近するなどと言われ親しまれていますね。
このような謂れには理由があって、夏の暑さで思考が鈍り、思いを超えた意識領域、霊なる世界の扉が開かれるというようなことが起きやすいからではないかと思います。
ただ、それが幽霊的なものとゴッチャになるところが日本人らしいようですが...
私的にも、この盆の辺りからの一月くらいまでの期間は、例年何か意識が高揚してきたりだとか、ここ数年ですと、現臨感覚が一際冴えたりとか、霊的コンディションが高まる感じを覚えることが多いのです。
この期間は、昼間はセミの鳴き声、夜間は秋の虫たちのそれが盛んに聞かれ、それが又その状態を促し、後押ししてくれるような気もしてきます。
虫の鳴き声というのは、共鳴作用ですね、耳鳴りと非常に共鳴するようなんです。心も落ち着きますしね。
又、暑気の合間に吹き込む涼風...これが霊なる風、プノイマ(霊、風の両義を持つギリシア語)を想起せずにおれません。
このように、霊のみ親が自然の力を駆使して、内なる霊性を呼び覚まし、霊の故郷へと誘っているよう...
私の人生で大きな節目となった、二度の精神的目覚めは、いずれも八月下旬でのことでした。
最初は、ホントに人生最初で、多分最後であろう、爆発的規模の覚醒体験は昭和58年のこと。それに比べずっと穏やかでしたが、深く、全身心に形なき命が浸透するのを身に覚えたのは、平成十年のことでした。
しかも、同じ夕暮れ時なのです。(そうそう、“黄昏と霊性“といったテーマも絶対に看過出来ないものがあるはずなのです!...誰か書いてないのかなあ?...私が書きたいのは山々なんだけど何故だか分からんとキテる!...)
こういうことは、他力本願とかで片付けてしまってはダメだと思いますよ。
こうして書いているだけで、我がみ親の本願というものをヒシヒシと感じています。
それは勿論、この時節に限った訳じゃありません。
しかし、そうなることには何らかの自所位の縁が働いているはずなのです。
それがもっとも表れやすいのが、今の時節ということ...これに乗らない手は無いのではないでしょうか?
外ではセミがしきりに鳴いて、こちらに祈ることを促しているようです。
今年も産土の社にお参りしよう!...


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ひの雨が降る?

2022-08-07 10:15:46 | スピリチュアル?
「あれは本物じゃない、本当の火の雨はこれからじゃ」(出口王仁三郎)

私は「日月神示」であるとか、世間では”予言の書“と目されている書物も愛読してますが、予言そのものには興味ありません。あれなどはホントは、“ミタマの糧”として読まれるべきものだと思っています。
予言というと、大体は世界の終末であるとか、いたずらに人心を不安に陥れるようなものが多いようですが(何でそういうものに群がるんだ?)、本物の予言とは、救済に結びつくものだと信じて疑いません!
来ない先のことなど分からないものだけど、私の脳裏にはずっと拭い去れない、あるヴィジョンが描かれているのです。
それは...人類全体に火の雨が降り注がれるというものです!...これにより事実上、世界は終末の事態を迎えるのは避けられないであろう!...
は?!...我ながら言ってることがむちゃくちゃかも知りません。暑いし。...
出口王仁師も戦後まもなく、記者の「火の雨が降るという予言も的中しましたね?」(これは、米軍による焼夷弾の攻撃、広島、長崎の原爆投下のことが映し出されていたのでしょう)という質問を受けて、そのようなことを述べられていました。
今度、核兵器による火の雨が降ることになれば、確実に世界は滅亡の事態に見舞われることも、現実味を帯びて来ている今...それだけじゃない、コロナ、環境破壊...何から何まで人類の明るい未来を閉ざすようなことばかりが立ち塞がる...こうした事態に対し、我々はもはや自力で処することは不可能と言っていいでしょう。
その助け主は、見えない世界、思いを超えた世界からやって来る!...それが火の雨に他ならないのです!
この“ひ“とは、実は“霊“とも読めるということは、王仁師も言霊学により説明しているのですが、ひの雨が降るとは、霊の雨が降るということ、世界的規模の聖霊のバプテスマの如きものが私に想起されてならないのです。
これは、39年前、初めて人生の裏側に踏み込れた際、私自身が聖霊のバプテスマの如きものに与って、そういうものが過らされたことなのです。
そして...私にはもう世界の終末への序曲は始まっているように感じてなりません!
世界の終末とここで言っていることは、“我々が思っている世界が終わる“、ということです。
人間は考えて、何かを為す、それだけで生きているのではない!...その奥にはどこまでも広く、深い純粋意識の、霊なる領域がある...霊なる雨はその目覚めを促進してやまない...
私は、いつも現臨にあることを通し、それが日に日に強まって来るのを感じてならないのです。
しかし、どっかで堰が切られるようなことがあるのでは?...それは分からない、言えない!
...と、こうして書いていたら、私が普段批判的に言っている、狂信者に思われてしまうかも...
だから来ない先のことは、これ以上言いません!
私はただ今感じていることしか言いたくないのです!、それ以外は所詮“余言“に過ぎません!
今、感じていること...私という人類が目覚めようとしている!...
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