人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

五井先生解放宣言

2017-06-05 11:18:16 | 人生の教師
こないだ、ネットで知ったのですが、長年、五井先生を信奉していたある人が、段々その説かれた道の根幹である、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」をし続けるのが、おっくうになり、苦しみを背負いこんでいたのが、そこから離れてみたら楽になった、と言う意味のことを言っておりました。
その行をし続けていたら、楽に、幸福になるはずであると信じ込んでいる人には、実に聞き捨てならない話ではありませんか!
(こういう事は当人にしか分からないのは承知の上なのですが)このケースとは違いますが、私にも似た経験があります。
その時はこういう自覚も無く、はっきりとはわからない事でもあるのですが、何かそこに取り巻いている思念の波に巻き込まれるのが、イヤになってしまうのだと思います。自分の魂がそれに関わるのを拒絶している感じになっているのです。
こんなこと言うと、信者たちはお決まりの弁明をするでしょう…”それは業想念の顕れだろう…”と。
そうかもしれません。しかし、ここには現実にその道に携わる上において何らかの障り、滞らせているものが生じているのです。
何かが障っていて、自然に、スムースに通らない、流れて行かない…これが業の何たるか、カルマ的なものの示現を物語っているのではないでしょうか?
肝心な事は、周囲のアカの他人の、個々の問題などろくすっぽ分かりもしない、集団的思念に基づく言説でなく、偽りの無い自分自身の内なる声に耳を傾ける事なのです。自分で分からなければ…そうですね、守護霊と言っていいのか、ガイダンスに聞いてみたらいいでしょう。
ガイダンスとはどっかの霊団のことでは無い、あなた自身のガイダンスのことです!(これは普遍的人間とつながっている…かもしれない)
誤解しないでほしいのですが私は、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」そのものを否定している訳ではありません。
そこに十重、二十重と取り巻いている思念のことを問題にしているのです。
これは長年多くの衆が集まる宗教教団にまつわる宿命と言っていいでしょう。
実際に教団と関わっていようといまいと、特定の教師、教えを信奉している者が抱える問題でしょう。関係者はこの事を直視すべきです。
(より多くの人にその教えを広めようとして、一人、また一人と離れて行くぞ! ”業想念が~”なんて脅しはもう、通用しないぞ!)
普遍性に開かれていない独善的、宗我的思い、実際に見ても、感じてもいない見えざる領域への空想的思い、世界平和の実現へのたぎるような熱誠の思い…活動の基盤となる教団の在り方を巡る疑念、別派への対立の思い…もう、思念が充満しているんじゃないですか?
思いというのは、悪いものも、良いものも消えてゆくのではなかったのですか?
自分の魂が抵抗しているのなら、こういう重たい、思いの世界からは離れてみる事が先決です。
そして改めて…神、ガイダンス、そして五井先生なら五井先生に向き合ってみるのです。
祈りを込めて…引っかかるものを感じるのなら、件の祈りでなくてもいいでしょう。
否、祈りとは偽らざる自分の魂からの発露でなくて何であろう…命を宣り出すという、自己を超えたものへの托身なのです。
決められた祈り言葉を唱えるとかというのは、大衆には取っ掛かりとなり易いからでしょう。
私は正直、特定の団体とかにしか通用しない道には導かれることが無かったのです。(思念に捉われたくないから…)
だから、ここではウンと個人的か、普遍的な事しか伝えていません。(皆個人的なことしているから普遍的なのです。不特定多数がやっていることはポピュラーなものだけど、相対的な事です)
この祈りが他人事でなく、自分自身の内なる魂のこととして、自己を超えたものに向けられ、つながったならば、忽然と諸々の思いから解放されることが実感されるでしょう。
「消えてゆく姿は難しい」という声もよく聞かれることです。(難しいとかなんとかって、あーた…私は、そんな難行などやったことが無い!)
祈ったら、否意識があっちにパッと向いたら、パッと消えるという事は知っています。あれは、そもそもそういう事を言っているんでしょ…
”祈らなきゃあ”、とか”消えてゆく姿で…、ン…消えて行ったか?…いや消えてない…”とか、そういう事では無い…自分がそうするという事じゃないのです! これが念的なものの温床となるのです。
このような事は、私が自由に五井先生に親しんでいるうちに身に付いたのです。
私は五井先生から離れる事で、ガイダンスというものを実感することが出来たのです。
ずっと私は五井先生の無教会派だったのです。
無教会とは、教会から自由というばかりでなく、所与のドグマからも自由だという事です。
ヘンな言い方ですが、私は五井先生をそこに取り巻く諸々の思念…教団からも、ドグマからも、オカルト思念から解放させたい、と思っているのです。
そうなれば、多くの依存信者もその思いから解放され、自立出来るでしょう。
そして、先生の存在は、宗教の相対的垣根から普遍的世界に開放されることになるでしょう…
それが我々の思いを超えた光が無碍に普遍世界に流れ、世界平和を開くことになるでしょう…。

コメント (4)
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