人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識はどこにある

2017-06-08 17:27:57 | 意識、照明
自分では自分のことが分からない…
それは、限られた自分が限られた自分を見ようとしていることだから…
何が真実で、何が虚偽か…この真偽がごっちゃになった世界に自分が居たままで分かるだろうか…
意識が自己の限界内にあるままでは何も見えてこない…
観照する自己でなしに、観照している超越的他者の目…照明、イルミネーション…

スピでも哲学でも、これについて言及されることが、実に少ないのはどういうことなのでしょうか!
大方は、一生懸命自分で何かを極めようとしているようです。
自分って、そんなに何でも分かってしまうものなのですか?
でも、昔から、知らず知らずにこの”すべてを見通す目”のことは気付かされていたのでしょう。
”お天道さんが見ているぞ!”とか言って…
フリーメーソンのシンボルになっている、あの”一つ目”も元来はこれを象徴しているのでしょう。(しか―し…あの蛇が曲者だ!)
あの恩寵の光の照射を受けると、確かに一つの目で見られている感じになります。
二つある、相対というものが超えられてしまうから…これは思考が超えられているという事です。(何故、この現世で生きている我々には、目が二つあるのかが分かってきそうです)
気付きといいますが、誰でもその瞬間思考が超えられた、あるいは停まったように感じられるのではないですか?
この気付きにこそ、超越的他者性というものが顕れているのが分かるでしょう。(あれは降りてくるものなのでしょ…)
気付きとは、例えば思いが何かに付着している…捉われた状態から”離され、放され”たところにやってくるものですね。
そこに、縺れ、重圧などから離してくれるもの、解き放つもの、超えさせるものがハタライているのです。
照明といい、気付きといい、それに預かると、とても意識的になっているというか、明晰に、深くなっているように感じられます。
この状態にある時、”本来の自己”というものを実感するのです。
意識というのは、どうしても自分の中に、(特に問題だらけの頭の中に)あるように思い込まされているものですが、より深い意識というのは、上から降りてくるのでしょうか? 自分以外のどこかにあるんでしょうか?
これが意識の変容ということなのですが、やがて自分の中とか外とか境界が無くなるようになります。
するってーと…意識というのは、一体どこにあるのでしょうか?
ユニークな瞑想家の故・山手国弘さんは、”意識は空間にある”と言っておりましたが…(私は一度だけその瞑想会に参加した事が有りますが、あれは一種のイメージ瞑想なのでしょうか?)どうしても、自意識が空間にあるようなことを思い描いてしまいます。
しかし、実はより自己を明らかにさせる意識というのは、自意識を超えているのです。
自意識から離し、解き放つハタラキによってそうなるのです。
離れ、放たれていないと、小我と大我が同化されて、自己の本源に気付くことが出来ません。
この事が蔑ろにされると、永久に自己の本源、真我なるものを見失うことにもなりかねなくなるでしょう。
その気付きのハタラキの出どころは、この見える自分には無いと言わざるを得ません。見えざる領域に淵源があるのでしょう。
そこには境界というものが無くなり、あらゆるものとつながるから…
と言っても、この限られた自己が直ちに一者になる訳でも無く、一者と切り離されているものでもありません。曰く言い難いものですが、一如のものといったものでしょうか?

神というものは、何故多くの人から超越した存在のように認識されているのでしょうか?
何故、お隠れ給うたのか?…再び一つになるため…。









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