私はこれまでいくつかの宗教、精神的道と出会って、それに共鳴して何度か信者とは言わないまでも、その道に自分の心の拠点を置こうとしかけたことがあるのですが、その都度自分の意志でか、別の意志でか、その固まりつつあった心の牙城が壊れてしまう事態になってしまうのでした。
結局人生で私が自覚している限り、信者という生き方をしていたのは、まだ本格的な求道に目覚めていなかった、学生時代の新宗教においてだけだったのです。
つまりは特定の教えにも修行にも就こうとしない、就かしてもらえないようなのです。(これを私の背後で促しているものが何時も認められました)
これは精神がニュートラルな状態に戻されるという事でもあろうかと思います。
ニュートラルとは、いずれにも偏らない、中立をキープすること…何だか、中途半端でどっちつかず…という印象を受けますが、私の内部はこういうこととは裏腹に、トコトンまで進まないと気が済まないところもあり、実際、中途半端な意識では絶対に預かることの出来ない事態にも導かれたのです。そして…この際では、特定の教えや修行などというものは、全く入り込む余地などありません。特定の道に依拠していても、それらが直接、あの圧倒的な現臨に即応するわけではありません。
人生の裏側へと踏み入れてしまう際には、それらはすべて手放さざるを得なくなるのです。
これを意識が”ゼロ地点”に戻されることと言ってもいいでしょう。
ニュートラルであることというのは、本来は、中途半端どころか、こういう事物の真っ中心的なものに関わることなのではないでしょうか?
我々はものの本源的なものへと回帰しようという要求があり、またそれに還元させようとするハタラキがある…
真実の自己とは本来の自己のこと…真我の目覚めとは、本源的自己へと還元されるという事でしょう。
この本源的ハタラキは、あらゆる不調和、不自然な状態から本来あるべき状態へと還元させる作用があるようです。
しばしば、心身の癒しに結び付けられるのもこの理由が有るのです。
シャカも、キリストも、老子も、特定の宗派を立てようとしたのではなく、宗我的なものに捉われていた、時の主流の宗派に対し、このニュートラルなものに帰ることを説いていたのでしょう。これが又、後世になって教団形成に伴って、人為的な教義、修行などが設えるに至ってしまったのです。
特定の集団に合わせた教え、修行、儀式…普遍性に開かれない、相対化され、分離された集合体ばかりが垣根を作って割拠して行きます。ニュートラルなものから、客観的集団にアダプトされたそれらのものは、一人一人の自己へと還元されて行きません。
しかし、自己に向かわない道などというものがあるでしょうか?
例えば禅というものがある…禅といっても禅宗のそればかりのことではありません。どうも座り方とか公案のことなどが想起されるようですが、禅とは本来それらを超えた、ニュートラルなものであるハズです。その原義である”ディヤーナ”(三昧)という事自体、人為的なものから離れたニュートラルな状態を言い表しているのでしょう。(私がブッダやボーディ・ダルマなどの”原始”の禅に想起されるものは、こうしたものです)
又、巷にはこれを表す適当な言葉が無く、一部で”霊動法”と言われている所謂行法がありますが、その一種である、ラティハンを伝えるスブドなどでは、魂の段階的進化に関する教説が説かれていますが、勿論そのようなものを全く知らなくても、ラティハン自体は誰にも受けられるものです。
実際、そのような特殊な教えはスブドにおいてしか信じられておりません。
その修練にあたっては、あくまで各人に自然に、内的に発現し、理解されるものにゆだねられるべきで、いたずらに抽象的観念事に偏ってしまっては、意識にニュートラルでないものが持ち込まれる事にもなりかねません。
もっとも指針、手引きとなるものも有っても然るべきだと思いますが、あくまでも根本にあるものは、我々の限られた意念でなく、ハタラキ自体による”形なき教え”であるべきです。
ことさら人為的な教えやメソッドで固めたりしないで、一人一人の自己へと還元されることで、普遍性へと開かれていくでしょう。
自己の本源にあるものは、あらゆる相対を超えて、普遍性と切り離されていないものだから…。
結局人生で私が自覚している限り、信者という生き方をしていたのは、まだ本格的な求道に目覚めていなかった、学生時代の新宗教においてだけだったのです。
つまりは特定の教えにも修行にも就こうとしない、就かしてもらえないようなのです。(これを私の背後で促しているものが何時も認められました)
これは精神がニュートラルな状態に戻されるという事でもあろうかと思います。
ニュートラルとは、いずれにも偏らない、中立をキープすること…何だか、中途半端でどっちつかず…という印象を受けますが、私の内部はこういうこととは裏腹に、トコトンまで進まないと気が済まないところもあり、実際、中途半端な意識では絶対に預かることの出来ない事態にも導かれたのです。そして…この際では、特定の教えや修行などというものは、全く入り込む余地などありません。特定の道に依拠していても、それらが直接、あの圧倒的な現臨に即応するわけではありません。
人生の裏側へと踏み入れてしまう際には、それらはすべて手放さざるを得なくなるのです。
これを意識が”ゼロ地点”に戻されることと言ってもいいでしょう。
ニュートラルであることというのは、本来は、中途半端どころか、こういう事物の真っ中心的なものに関わることなのではないでしょうか?
我々はものの本源的なものへと回帰しようという要求があり、またそれに還元させようとするハタラキがある…
真実の自己とは本来の自己のこと…真我の目覚めとは、本源的自己へと還元されるという事でしょう。
この本源的ハタラキは、あらゆる不調和、不自然な状態から本来あるべき状態へと還元させる作用があるようです。
しばしば、心身の癒しに結び付けられるのもこの理由が有るのです。
シャカも、キリストも、老子も、特定の宗派を立てようとしたのではなく、宗我的なものに捉われていた、時の主流の宗派に対し、このニュートラルなものに帰ることを説いていたのでしょう。これが又、後世になって教団形成に伴って、人為的な教義、修行などが設えるに至ってしまったのです。
特定の集団に合わせた教え、修行、儀式…普遍性に開かれない、相対化され、分離された集合体ばかりが垣根を作って割拠して行きます。ニュートラルなものから、客観的集団にアダプトされたそれらのものは、一人一人の自己へと還元されて行きません。
しかし、自己に向かわない道などというものがあるでしょうか?
例えば禅というものがある…禅といっても禅宗のそればかりのことではありません。どうも座り方とか公案のことなどが想起されるようですが、禅とは本来それらを超えた、ニュートラルなものであるハズです。その原義である”ディヤーナ”(三昧)という事自体、人為的なものから離れたニュートラルな状態を言い表しているのでしょう。(私がブッダやボーディ・ダルマなどの”原始”の禅に想起されるものは、こうしたものです)
又、巷にはこれを表す適当な言葉が無く、一部で”霊動法”と言われている所謂行法がありますが、その一種である、ラティハンを伝えるスブドなどでは、魂の段階的進化に関する教説が説かれていますが、勿論そのようなものを全く知らなくても、ラティハン自体は誰にも受けられるものです。
実際、そのような特殊な教えはスブドにおいてしか信じられておりません。
その修練にあたっては、あくまで各人に自然に、内的に発現し、理解されるものにゆだねられるべきで、いたずらに抽象的観念事に偏ってしまっては、意識にニュートラルでないものが持ち込まれる事にもなりかねません。
もっとも指針、手引きとなるものも有っても然るべきだと思いますが、あくまでも根本にあるものは、我々の限られた意念でなく、ハタラキ自体による”形なき教え”であるべきです。
ことさら人為的な教えやメソッドで固めたりしないで、一人一人の自己へと還元されることで、普遍性へと開かれていくでしょう。
自己の本源にあるものは、あらゆる相対を超えて、普遍性と切り離されていないものだから…。