この十数年ばかしの間に、やたらとテーラワーダと言われる小乗、上座部の仏教、その主たる修行法とされるヴィパッサナー瞑想に関する書物が書店のコーナーを賑わしているようです。
私は基本、修行的な人間でないので、さほど関心が無かったのですが、先日ある本を立ち読みしていて思わず意識が一点に集中してしまいました。(こういうような事を私はいつも意識を集中しようとしなくとも、自ずと集中してしまう事と言っているのです)それは...
藤田一照.山下良道共著「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)
という本で、数年前かなり評判になったようなのですが、遅まきながらこれが"目から鱗"ものだった次第なのです。
共に伝統的な禅修行に打ち込み、それに飽きたらずに海外で研鑽を重ね、その後独自の仏道を提唱している両師の主に禅、テーラワーダを中心にした対談を集めたものです。
とにかく一口では語れないくらい、啓発されるところが大きったのです。
まず、禅といい、ヴィパサナーといい、それらは私に限らず、それに打ち込もうという自分が主体となって携わって行く、所謂自力修行というイメージが付きまとって入るのではないかと思われるのですが、これには本当には、主客を超えたあるものが主導となって行われるものだ、ということが指摘されているのです。
「"俺が頑張ってやってやるぞ"という強為的な態度でいる限り、絶対に到達出来ない世界がある」(一照)
「眼を緊張させないでリラックスさせて待っていると、そのうち向こうから見えてくるでしょう」(良道)
この事は、この本では"シンキング.マインド"と呼んでいますが、自分がやろうとか、日常的な思考がガンバってる状態と、それを超えた意識状態というものがある、ということを理解しないと絶対に分からないでしょう。
こう言ってる端から、シンキング.マインドはきっとそれを超えようとガンバろうとするかもしれませんが...
瞑想的な意識状態というものがあります。それはそうなろうとしている、瞑想を"やっている"状態では無いということになります。
そこで禅では"ニミッタ"というものが現れるのだそうです。光が見えてくるようなことだそうですが、実際は見えないでしょう(見えたら"魔境"になりかねません)。光というのは"照らされている"ような感じのものを言い表しているのでしょう。
そうなのですi 自分が自分を見つめるとか、観察するのでは無い...良道師は"青空"(「青空としての私」という著書もある)ということを強調していますが、向こうから照らしているものがあるのですi これをコペルニクス的転回と言わずして何であろうi
素人に過ぎない私の私見を交えて書いている訳で、的を得ているのかどうか分かりませんが、私が知らないところで仏教界では、こういう発言がなされていたのです。
玉城康四郎先生は両師と同じく禅宗の禅に飽きたらなくなり、ブッダの禅定に転向しましたが、先生においても確かにシンキング.マインドを超えた世界の消息は伝えられておりました。
両師は従来の形式的な在り方に留まった仏教を"仏教1.0"、自力行的なものに留まった在り方を"仏教2.0"、この新たなる気付きからなる在り方を"仏教3.0"と規定していますが、お二人も言及しているように、これはある面では仏道がアップデートして行く行程と観ることも出来ますが、仏教が原始のブッダの本来性へと帰りつつある様を表しているとも考えられるでしょう。(これは光の光度が段々強まってきていると観ることも出来るでしょう)
と言っても(少なくとも私には)、何が本当のブッダの原始福音なのかは分かりません。例えば私自身は"四諦.八正道"などがブッダのオリジナルの教えなのか、疑問に思っているのですが、そういうことなどを学問的に紐解いたとして分かるものでは無いでしょう。
問題は何がブッダの正道なのか、どうかでは無く、小乗とか大乗とかでも、否仏教とか何教とかですらも無く、自己を超えて息づいてやまない、形無き命ーダンマに導かれるままに感受されて行くしか無いでしょう。
ブッダの道はそうして始まったに違いは無いでしょうから...
私は基本、修行的な人間でないので、さほど関心が無かったのですが、先日ある本を立ち読みしていて思わず意識が一点に集中してしまいました。(こういうような事を私はいつも意識を集中しようとしなくとも、自ずと集中してしまう事と言っているのです)それは...
藤田一照.山下良道共著「アップデートする仏教」(幻冬舎新書)
という本で、数年前かなり評判になったようなのですが、遅まきながらこれが"目から鱗"ものだった次第なのです。
共に伝統的な禅修行に打ち込み、それに飽きたらずに海外で研鑽を重ね、その後独自の仏道を提唱している両師の主に禅、テーラワーダを中心にした対談を集めたものです。
とにかく一口では語れないくらい、啓発されるところが大きったのです。
まず、禅といい、ヴィパサナーといい、それらは私に限らず、それに打ち込もうという自分が主体となって携わって行く、所謂自力修行というイメージが付きまとって入るのではないかと思われるのですが、これには本当には、主客を超えたあるものが主導となって行われるものだ、ということが指摘されているのです。
「"俺が頑張ってやってやるぞ"という強為的な態度でいる限り、絶対に到達出来ない世界がある」(一照)
「眼を緊張させないでリラックスさせて待っていると、そのうち向こうから見えてくるでしょう」(良道)
この事は、この本では"シンキング.マインド"と呼んでいますが、自分がやろうとか、日常的な思考がガンバってる状態と、それを超えた意識状態というものがある、ということを理解しないと絶対に分からないでしょう。
こう言ってる端から、シンキング.マインドはきっとそれを超えようとガンバろうとするかもしれませんが...
瞑想的な意識状態というものがあります。それはそうなろうとしている、瞑想を"やっている"状態では無いということになります。
そこで禅では"ニミッタ"というものが現れるのだそうです。光が見えてくるようなことだそうですが、実際は見えないでしょう(見えたら"魔境"になりかねません)。光というのは"照らされている"ような感じのものを言い表しているのでしょう。
そうなのですi 自分が自分を見つめるとか、観察するのでは無い...良道師は"青空"(「青空としての私」という著書もある)ということを強調していますが、向こうから照らしているものがあるのですi これをコペルニクス的転回と言わずして何であろうi
素人に過ぎない私の私見を交えて書いている訳で、的を得ているのかどうか分かりませんが、私が知らないところで仏教界では、こういう発言がなされていたのです。
玉城康四郎先生は両師と同じく禅宗の禅に飽きたらなくなり、ブッダの禅定に転向しましたが、先生においても確かにシンキング.マインドを超えた世界の消息は伝えられておりました。
両師は従来の形式的な在り方に留まった仏教を"仏教1.0"、自力行的なものに留まった在り方を"仏教2.0"、この新たなる気付きからなる在り方を"仏教3.0"と規定していますが、お二人も言及しているように、これはある面では仏道がアップデートして行く行程と観ることも出来ますが、仏教が原始のブッダの本来性へと帰りつつある様を表しているとも考えられるでしょう。(これは光の光度が段々強まってきていると観ることも出来るでしょう)
と言っても(少なくとも私には)、何が本当のブッダの原始福音なのかは分かりません。例えば私自身は"四諦.八正道"などがブッダのオリジナルの教えなのか、疑問に思っているのですが、そういうことなどを学問的に紐解いたとして分かるものでは無いでしょう。
問題は何がブッダの正道なのか、どうかでは無く、小乗とか大乗とかでも、否仏教とか何教とかですらも無く、自己を超えて息づいてやまない、形無き命ーダンマに導かれるままに感受されて行くしか無いでしょう。
ブッダの道はそうして始まったに違いは無いでしょうから...