人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生まれてはみたけれど...

2024-05-03 09:09:56 | スピリチュアル
ある禅の師は、「私には悩みも迷いも無いのです」と、いつも“自分は悟っている“、みたいなことを言っていました。
これは、最近の悟り系スピの教師などが言っていることにも通じるのでしょうが、当たり前の話、最初から、生まれた時からそんな精神状態の人などほとんど居ないのです。
修行するなりして、その持ち前の自分を超えた力が表れたり、何かの契機に、自分の思い、力を超えたものに出会わされたりするか、ということがある訳で、誰でも最初は、考え、為そうとする自分であった!...そういう自分でしかないのが普通なのです。
それが原初の人間存在のあり様だった?...
そういう観方、感じ方もあるでしょうが、私は本当の原初の人間の状態というものは、そういうものではないと思うのです。
私には朧気ながら、生まれて間もない頃の記憶があります。
それは、何かいきなりこの世界に放り出されてしまった、何か生きてゆく上でもっとも大切なものから切り離されてしまった、要するに生まれ落ちてしまった、というような感覚なのでした。
人間が生きてゆく上でもっとも大切なもの。それ無しには生きることが出来ないもの...
そして、このことを心底から全身全霊で感じせしめられ、そのものとつながったことを実感せしめられたのが、数十年前、初めて“人生の裏側“に足を踏み入れた瞬間のことだったのです。
このもの無しに、そんたことになろう訳など無いではありませんか!
先の禅師や、悟り系スピ教師などの言葉には、いささか舌足らずの感は否めません。
それでも、そこに人間の本来性について言い表そうとしているという感じも伝わってこないでもありませんが...
私は、そのように本来の人間は、見たままの人間を超えたものとつながっている、という感じは受けているのです。
これは、先の何かもっとも大切なものから切り離されてしまった、という状態がそのことを裏付けていると言えるでしょう。
つまり我々は、本来性から外れてしまった状態で“生まれ落ちてしまった“のです。
だから、オギャーと生まれた赤ん坊は、その命の親ともいうべき、それ無しには生きてゆけないものを探し求めて、泣き続けるのでしょう。
本来人間は命の親と一つであった。そして生まれ出て、この世に表されて二つになったという訳です。
生まれてはみたけれど、もう次から次へと問題だらけではないか?
しかし、本来性というものは決してそれを失うということではありません。
しかししかし、切り離されたままでは、それは生きてこない、その二分された個体は、行き詰まり、立ち行かなくなるしかないのです。
では、表層意識で、原態を失った人間は、その分裂状態のまま、宙ぶらりんの生き方を余儀なくされるしかないのでしょうか?
いや、私はその原初のつながりを求めてやまないものは、その親の方という感じがしてならないのです。これは益々そうなってきているのではないか?
本来性というものは、そういうものを受けて生きているということは、それに帰るということが宿命づけられているのではないでしょうか?!
放蕩息子のように身を持ち崩してしまった我々は、その故郷に帰る力も気力も失ってしまったのかもしれません。
だけど、命の親は呼べぱ現れたもう...いや意識するだけで!
それは、ここに現れ臨みたもうのです!
そういうことを私は日夜、何ものかに促されて書かされている次第なのです。...






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする