私はここ最近、常々本当の自分というものは、その語感が示しているように、自分の本来性から来るものであろう、と言っています。
これは、ラマナ.マハルシがいつも説いていたことであり、それは例えば、何の努力も無しに自然にそのように導かれてしまうようなことから、そう感じていることなのです。
しかし、一方でベルジャーエフはこんな言葉を残しているのです。「超越的人間は人間の不変の本性ではない。...それは創造活動であり、自由である。霊も自由も共に本性ではない」(真理とは何か)
超越的人間というのは、ベルジャーエフによれば、自然的人間の背後にあって、その表層には影響されることなく、その創造、自由、霊性の道を開示するという、何というか、その...そう、思いを超えた神的なものと一つの人間、本当の人間?ということになるでしょうか?
彼に限らず、キリスト者は専ら、そういう超越性を強調しています。そして自然的人間、”生まれつき”の人間は、超越者によって克服されなければならない、生まれた人間は、もう一度生まれ変わらなければならない(これが霊的回心)とされているのです。
これが、インド的東洋とキリスト教的西洋の違いと言ったらそれまでなのでしょうか?
こういうことは、誰が何を言ったか、ということでなくて、実存的問題は、自分自身がどう感じているかということが重要であるのは言うまでもありません。
それに従えば、私は先のベルジャーエフの超越者について説明していた時、それはこの思われた人間ではなく、それを超えているのは当然だとして、それは人間の本来性から来るものなのだ、という言葉がどうしても出かかってしまう、そう駆り立てるものを感じてならないのです。
ベルジャーエフは、超越的人間は我々の内奥に息づいている、と言っているのです。内なるもの。これが、その本性的なものを言い表しているものでなくて何であろうか?
この本性的人間は、思い、為す人間、生まれつきの人間には、”本来”与り知れないものでしょう。
つまりは、ラマナとベルジャーエフの一見、相反するような見解の相違は、この本性、本来性というものの言い回しの違いがあるだけということなのでしょう。
超越者というか超越的ハタラキによらなければ、内なる自己の開示は無いでしょう。
しかし、そもそも内なるものがあるからそういうハタラキがあるのではないか?
天的なものと地的なものが惹きつけ合う、落雷の原理のように、超越的なものと内在的なものとは不可分な関係にあると言ってもいいでしょう。
いや、もう少なくとも私には、理屈で無しに、”超えているからここに在る”ものなんだ!
私は生まれつきの本性からは、不自由をかこつ人間なのであるが、もっと先の本性では自由な人間なのです。
生まれ落ちてからのこの思われた私には、私の本当の本来性を求めることは出来ないでしょう。
それは潜れているが、超えたものにあって顕わになるもの...
これは、ラマナ.マハルシがいつも説いていたことであり、それは例えば、何の努力も無しに自然にそのように導かれてしまうようなことから、そう感じていることなのです。
しかし、一方でベルジャーエフはこんな言葉を残しているのです。「超越的人間は人間の不変の本性ではない。...それは創造活動であり、自由である。霊も自由も共に本性ではない」(真理とは何か)
超越的人間というのは、ベルジャーエフによれば、自然的人間の背後にあって、その表層には影響されることなく、その創造、自由、霊性の道を開示するという、何というか、その...そう、思いを超えた神的なものと一つの人間、本当の人間?ということになるでしょうか?
彼に限らず、キリスト者は専ら、そういう超越性を強調しています。そして自然的人間、”生まれつき”の人間は、超越者によって克服されなければならない、生まれた人間は、もう一度生まれ変わらなければならない(これが霊的回心)とされているのです。
これが、インド的東洋とキリスト教的西洋の違いと言ったらそれまでなのでしょうか?
こういうことは、誰が何を言ったか、ということでなくて、実存的問題は、自分自身がどう感じているかということが重要であるのは言うまでもありません。
それに従えば、私は先のベルジャーエフの超越者について説明していた時、それはこの思われた人間ではなく、それを超えているのは当然だとして、それは人間の本来性から来るものなのだ、という言葉がどうしても出かかってしまう、そう駆り立てるものを感じてならないのです。
ベルジャーエフは、超越的人間は我々の内奥に息づいている、と言っているのです。内なるもの。これが、その本性的なものを言い表しているものでなくて何であろうか?
この本性的人間は、思い、為す人間、生まれつきの人間には、”本来”与り知れないものでしょう。
つまりは、ラマナとベルジャーエフの一見、相反するような見解の相違は、この本性、本来性というものの言い回しの違いがあるだけということなのでしょう。
超越者というか超越的ハタラキによらなければ、内なる自己の開示は無いでしょう。
しかし、そもそも内なるものがあるからそういうハタラキがあるのではないか?
天的なものと地的なものが惹きつけ合う、落雷の原理のように、超越的なものと内在的なものとは不可分な関係にあると言ってもいいでしょう。
いや、もう少なくとも私には、理屈で無しに、”超えているからここに在る”ものなんだ!
私は生まれつきの本性からは、不自由をかこつ人間なのであるが、もっと先の本性では自由な人間なのです。
生まれ落ちてからのこの思われた私には、私の本当の本来性を求めることは出来ないでしょう。
それは潜れているが、超えたものにあって顕わになるもの...