人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
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仏教の無神論、無我説

2025-02-09 07:00:14 | 仏教関連
今、秋月龍珉先生の「誤解された仏教」(講談社学術文庫)という本を面白く読んでいます。
秋月先生は、その師である鈴木大拙先生と同じく禅仏教に囚われない自由な観点から、宗教哲学を説いていることは、神学者の八木誠一先生との対話などを通じて伺われるのですが、この本からは、どうも仏教、それもブッダに始まる本来からの仏教への護教精神というものがちょっと鼻につかなくもない、という印象を受けてしまうのです。
ブッダは、神の実体、実在性について説かなかった(その語録に、神々について言及しているところは有るが、絶対者という認識は見られない)のだから、本来仏教は「無神論」である。
ブッダは、ヒンドゥー教のアートマン(真我)という固定した実体を説かず、自己存在は、縁起との関係性によって常態性が無いことを説いたのだから、本来仏教は「無我説」である。...
秋月先生は、そういう仏教の本来性を歪曲してしまう、現今、流布されている、神信仰に似た大日如来に対するような仏信仰、自己を高めて行って真我に達することで悟りを得るといった、皮相的な仏教理解と断じて混同してはならない、ブッダ伝来の真実の仏教を守らなければならないのだ、と何度も力説しているのです。
ぶっちゃけたことを言うと、仏教、ブッダの信者でない私には、なるほど本来の仏教はそういう性格のものだ、ということは分かるが、そういうことにあまり重要性を感じて来ないのです。
それを言うと、ミもフタも無い感じになりそうですが、それよりももっと大事なことがこの本には抜け落ちているように感じてなりません。
それはまず、ブッダが「無神論」「無我説」などをを説いたとされる(これはその語録などから伺うことしか出来ないのであるが)当時のヒンドゥー教がその精神、宗教世界を支配していた時代背景への配慮が欠けているのではないか、ということです。
ブッダの教えは、その絶対権威を持った定説となり、囚われの元となっていた、ヒンドゥー教の「有神論」「有我説」(この表現が適切なのかはともかく、これは先の「無神論」「無我説」に対応させているのです)への“穏やかな“プロテストだったのではないでしょうか?
これについて、私が浅学ながら理解していることは、ブッダは神という(ヒンドゥー的には“ブラーマン“か?)絶対的存在や自己の真実の実体としての真我、アートマンについては有るとも無いとも説いておらず、、自説を強調するような「無神論」「無我説」というものは立てなかった、ということなのです。(神のような絶対的な存在や自己の本体である真我についても“特に“説かなかった、という言い回しに気を付けなければなりません)
これはブッダの「無記」として知られているものですが、ブッダは囚われから自由になることを主眼としていた(それが解脱?)のではなかったか?
無神論や無我説などの定説を説いたということであれば、ヒンドゥー教の定説と何ら変わるものでなく、いたずらに固定観念やヒンドゥー教との相対観に囚われることになるだけでしょう。私はそんなブッダなど信じてなどいません!(信じているんだ?)
このことは、仏教への護教精神から離れて、私自身の実存に即して理解されなければならないことでしょう。
前回の単純な神信仰から一転して、ちょっとコ難しいこと書きましたが、私自身の問題であるには違い無いのです。
もっとこの本について触れたい重要なことがあるのですが、続きはこの次で...
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