私が精神的なものに目覚めた頃は、精神世界、スピ界なんていう括りも無く、とにかくスピリチュアルといえば、心霊的なものを差していた、と言ってもいいでしょう。オカルトという言葉も頻繁に聞かれ、そのテイストを持った宗教も含め、これらは同列のものとみなされていたようです。
私自身について言えば、最初に縁づいたものが、そうした新宗教だったということもあり、この道は避けて通れなかったのです。
そして、そこには実に共感と反感とが交錯していました。
こうした潮流を以下、便宜上”オカルト的なもの、オカルティズム”と仮称して述べてみます。
私が人生の裏側と称しているものですが、念のために言いますが、それは短絡的に霊界のことを差しているんじゃありません。
関連したことを言っているのかもしれませんが、なにしろ私には霊界が有るとも無いとも断じることは出来ないのです。
じゃ、何かと言ったら…分かりません(笑)…ただ、”この見たまま、思われたままの表側の世界だけが、世界の全てでは無い!”という事はハッキリ知らされ、その向こうに、その奥にあるX領域について言っているのです。その成り立ちとか際というのは到底図ることが出来ない、だから”霊界です!”とは言えないのです! これは思われた自分に対する真我というものと同じ理解です。
要するにようわからん!のです。これは物心ついた時からずっと私の中でモヤモヤとくすぶっていたものですが、青年期のある時、内面に”この見たままの世界と別に霊界というものが有る!”という事が電撃のようにもたらされた時、ある輪郭、理解の筋道が与えられたように感じました。
とにかく、”この世を超えた超越界というものが有るらしい…”と思わせる契機が生まれたのです。
人間はある形を想定することで、理解しやすくなる(もっともそれは真に理解したとは限りませんが)という面もあるものです。
ここで霊界というものを取り上げて一例を示したのですが、神智学的な説明では、アストラル界とかエーテル界、メンタル、コーザル…と言った霊的意識の進化に応じたと思しき境界が有るとされています。私には、この各々の領域がどっからどこまでで、所謂魂の目覚めというものがどこであるのか、といったことなどがよく分かりません。実際にこういう類型的な説明の通りに、人間の意識の有り様はなされているのか疑問ではありますが、ま…人によっては、そういう説明も役に立つのかな?という風に捉えております…
ハッキリ実感して、感ずることは、精神はいくつもの境界を通るという事より、思考が機能する領域を超えて、純粋意識ともいうべきものが顕わになるという一種の関門?を通るということ…これが重要なことではないか、という事です。
このオカルティズムの傾向として、このように全ての人に受け入れられる、という種類の教説でないにも関わらず、それが一種の信仰表明のように説かれる場合が有ります。”霊界などは、霊視能力が無ければ分からないのです!”などとミもフタも無いことを言って煙に巻こう、という人も見受けられます。
私はこういう傾向には反発を覚えざるを得ません。
更には、その言説に対して自身は何らの内証を得ている訳でも無いのに、短絡的に迎合してしまう”信者たち”の傾向に対しても…
この双方の周辺には、中身の無い言葉ばかりが独り歩きし始めます。もう、馴れ合いという感じです。
私はこうした傾向に辟易して距離を置きようになったのです。
オカルト的言説に接した場合、短絡的にそれらに飛びついたりしないで、一端心象に預け、そこで照明に照らされるとか、内省に委ねるとか、練られる必要があるのではないでしょうか?
表現する上では知的理解というものも必要で、とにかく独りよがりのオカルトカブレの言説には知性も学も感じられません。
私はそうして心象に預ける事を身に覚えたのです。これを”神棚に上げる”と表現しています。
そうしているうち、ある時ポンと”ああ、成程、そういう事か…”と自ずと身が頷くようなことも有るものです。
身が頷くという事は、直観的な事、知的な事、情感的な事…さらに重要なことは思いを超えた愛のハタラキの受信、共感が相まってそうなる、といえるでしょう。
私は前記したように、オカルトそのものを否定しません。それも一つの観方、一つの表現ではあると思っています。
ただ、それは短絡的に言葉に溺れ、振り回したりしないで、神棚に上げる事でより活きたものになるでしょう…。
私自身について言えば、最初に縁づいたものが、そうした新宗教だったということもあり、この道は避けて通れなかったのです。
そして、そこには実に共感と反感とが交錯していました。
こうした潮流を以下、便宜上”オカルト的なもの、オカルティズム”と仮称して述べてみます。
私が人生の裏側と称しているものですが、念のために言いますが、それは短絡的に霊界のことを差しているんじゃありません。
関連したことを言っているのかもしれませんが、なにしろ私には霊界が有るとも無いとも断じることは出来ないのです。
じゃ、何かと言ったら…分かりません(笑)…ただ、”この見たまま、思われたままの表側の世界だけが、世界の全てでは無い!”という事はハッキリ知らされ、その向こうに、その奥にあるX領域について言っているのです。その成り立ちとか際というのは到底図ることが出来ない、だから”霊界です!”とは言えないのです! これは思われた自分に対する真我というものと同じ理解です。
要するにようわからん!のです。これは物心ついた時からずっと私の中でモヤモヤとくすぶっていたものですが、青年期のある時、内面に”この見たままの世界と別に霊界というものが有る!”という事が電撃のようにもたらされた時、ある輪郭、理解の筋道が与えられたように感じました。
とにかく、”この世を超えた超越界というものが有るらしい…”と思わせる契機が生まれたのです。
人間はある形を想定することで、理解しやすくなる(もっともそれは真に理解したとは限りませんが)という面もあるものです。
ここで霊界というものを取り上げて一例を示したのですが、神智学的な説明では、アストラル界とかエーテル界、メンタル、コーザル…と言った霊的意識の進化に応じたと思しき境界が有るとされています。私には、この各々の領域がどっからどこまでで、所謂魂の目覚めというものがどこであるのか、といったことなどがよく分かりません。実際にこういう類型的な説明の通りに、人間の意識の有り様はなされているのか疑問ではありますが、ま…人によっては、そういう説明も役に立つのかな?という風に捉えております…
ハッキリ実感して、感ずることは、精神はいくつもの境界を通るという事より、思考が機能する領域を超えて、純粋意識ともいうべきものが顕わになるという一種の関門?を通るということ…これが重要なことではないか、という事です。
このオカルティズムの傾向として、このように全ての人に受け入れられる、という種類の教説でないにも関わらず、それが一種の信仰表明のように説かれる場合が有ります。”霊界などは、霊視能力が無ければ分からないのです!”などとミもフタも無いことを言って煙に巻こう、という人も見受けられます。
私はこういう傾向には反発を覚えざるを得ません。
更には、その言説に対して自身は何らの内証を得ている訳でも無いのに、短絡的に迎合してしまう”信者たち”の傾向に対しても…
この双方の周辺には、中身の無い言葉ばかりが独り歩きし始めます。もう、馴れ合いという感じです。
私はこうした傾向に辟易して距離を置きようになったのです。
オカルト的言説に接した場合、短絡的にそれらに飛びついたりしないで、一端心象に預け、そこで照明に照らされるとか、内省に委ねるとか、練られる必要があるのではないでしょうか?
表現する上では知的理解というものも必要で、とにかく独りよがりのオカルトカブレの言説には知性も学も感じられません。
私はそうして心象に預ける事を身に覚えたのです。これを”神棚に上げる”と表現しています。
そうしているうち、ある時ポンと”ああ、成程、そういう事か…”と自ずと身が頷くようなことも有るものです。
身が頷くという事は、直観的な事、知的な事、情感的な事…さらに重要なことは思いを超えた愛のハタラキの受信、共感が相まってそうなる、といえるでしょう。
私は前記したように、オカルトそのものを否定しません。それも一つの観方、一つの表現ではあると思っています。
ただ、それは短絡的に言葉に溺れ、振り回したりしないで、神棚に上げる事でより活きたものになるでしょう…。
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