人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ただ、受ける

2023-05-09 10:12:34 | 祈りと瞑想
前回の記事で、”地獄的想念に囚われる”ことについて書きましたが、これは言うまでもなく、こちらが望んでもいないのに、そういう恐れる思いが出て来てしまい、苛み苦しむようなことについてのことではありません。念のため。
そうではなく、もっと能動的にそういうことへの興味からか、わざわざそういうことを言葉に出したりしてるような向きについてのものです。
これは自分にも周囲にも、そうしたネガティブな思いを投げかけてしまう、という自覚を持っていない、ということになるでしょう。(だからダメなんだ!)
これに反して、”ああ、ダメだ、どうしてもそういう思いが出てしまう...”、と感じることは、ダメだなんて、とんでもない…自覚があるということです。
私自身、どれだけその自分で、自分の思いをどうにも出来ないことに苦しんだことか!
だからこそ、思いを超えたものが臨み、それによりその超えた世界が開かれることに、この上ない福音を感じずにおれないのです。
自覚の無い、ホントにダメなヤツは放っとくとして(地獄へ落ちるなり、宇宙のチリになるがいい!)、その苦しみを通して神への道につなげて欲しいと願わずにおれません(どうだろう、この温度さは!、これがきっと私の業の何たるかだろう?)。
そうした自覚があるということは、意識的になることと一つのことです。
何度か書いているように、自分の思い、力というものの限界、無力を知らされることにより、直ちにそれを超えたものを知覚出来るのです。又それが臨むこと自体、そのことを悟らされることに他なりません!...悟りとか覚醒というものは、このことを離れて絶対に無い、自分で思える、出来ると思っている人間には絶対に分からないでしょう!
これは、何かの拍子に意識がパッと向いただけで、そうなったりします。祈ろうと思った瞬間かもしれません。長年の、難しい修業など必要じゃありません。
どうやったらいいのか?...だから、祈るという以外思い付かないんだって!
祈ろうということは、超えたものの方に意識が向けられることですからね。
それは又、思うこと、考えごとにしないということでもあります。
そんなんでそうなる訳ないと思う人には、お気の毒ながら、こちらがやれる何かによるものでなく、あちらのもたらすものの絶大なるものたることが分からないのです!...
ただ、”受ける”ということがあるだけ!...それ以外は余計な雑行みたいなものでしょう。
その訪れを待ち望むということはあるでしょうけど、もうそのような心持ちになるだけで、ほら、どっからか、喜びが、安らぎが、ソコハカと...
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