人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

身についてしまったこと

2025-01-04 06:14:47 | 祈りと瞑想
玉城康四郎先生は、いつも性懲りもなく禅瞑想をしていたと言います。
私も性懲りもなく祈りのようなことをしています。
勿論、そうやろうと意志してするのですよ。
だけど、それがすぐ何か自分の思いを超えて、“祈らされている“ような感じとつながってしまうのです。
玉城先生の場合もおそらくそういう感じだったのでしょう。
自分を超えた意志、力がいつの間にかピシッと入る、支えられる感じ...
加持されるというのは、こういうことなのでしょうか?
そうなると、いつも条件反射のようにある状態に導かれるようになります。
そう、愛、安らぎ、リアリティに与るのです。
それを期待しない訳にはゆきません。
別にそれを図ってやってる訳でも無いんだけれど...
期待しない...そういう、“ため“に、自分の思いでやってはならない!...
な~んてことを思ったりもするけれど...そう思ったりするのか?
自分でコントロールしようとするのか?...
無理です。不自然です。
何だっていいんです!
そうなるに任せるしかありません。
そうならないかもしれないが...まあ自分の“思いが開かれたら“、そうならない訳にはゆかないのだけれど...
自然にそうなる...
だから...もうホントに性懲りもないことなんです。
祈る、祈らされる...
呼吸することと同じようなものですね。
私の内的な生活にあって何に導かれていたのか、何が命になっていたのかが自ずと分からされます。
まあ、祈るってそういうことなんでしょう?
瞑想でも本当はそういうことなはずでしょう?
この正月は例年になく、だらだらと寝て暮らすことが多いのです。
いや、だらだらという感じばかりになる訳じゃないですよ!
それだけになる訳が無いんです。
いよいよと、そのことが身についてしまったのを感じているこの正月なのでした...。


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