今日はですね、"霊体"について書いてみようと思うのです。
エーテル体とかアストラル体とか言って、何がどう違うのかテンデに分かりませんが、総じて霊なるボディについてです...
って、前回も書いたようにアタシャ、そんなもん実感、体感したことなど無いのに、書けるかってんですi
霊界に移行したことも無いのに...私の目はまだ黒いi...有るのか無いのか分からんものを空想してるより、この肉体のこと考えてたらいいのi
しかし...この肉体というもの、本当にその物理的肉体のみによって捉えられるものなのでしょうか?
そう思われているだけなんじゃないでしょうか?...少なくとも私はそう思えないことをいつも実感、体感させられているのです。
例えば、"じんじんして来た、感じて来た"、というのが正にそうなのです。もっと一般的?なものでは、それとセットになっているような"耳鳴り"というのもそう...あれは耳から聞こえて来ないのが不思議なのです。(聞こえて来るのもあるけど、そっちは耳鼻科に行かなきゃヤバイやつかも?)
こういうものは、物理的肉体というものに限定されたところからは来ないように感じざるを得ません。
さりとて、そこから離れたもののようでもない...離れたら遊離する、現実遊離と言ってもいいような感じになります。
現実感覚と私はよく言ってますが、それはただの観念的な事態というものと区別するために言っているのです。
ではその現実感とは、肉体から来るのでしょうか?...いいや、そんなこと無いでしょう。
その他、私は単なる頭の記憶と区別するために"身に覚える"、というようなことを言ったりします。
身体と結びつけたような表現ですが、正確なものではなく、やはり思いの世界との違いを示しているのです。
こういう風な言わく言い難い感覚を、私はさらっと内的感覚とか言ったりするのですが...
こういう感覚というのは、肉体で無ければ一体どっから来るのでしょう?...霊体?
だから、アタシャそういう目に見えんものが、それ自体独立して存在するような体的なものは知らんのやってi(何故か大阪弁)
この話を分からなくさせているものは、肉体があって霊体(とされるもの)があるという、二元的な観方にあるのではないでしょうか?
私に現実感、私自身について言えば実存感をもたらしているものは、見えるものと見えないものが不可離の、霊肉一致体?(見えないものに体という言い方は適切なのだろうか?)のようなものではないでしょうか?
言い換えると、我々が肉体と思っているものは、思ったよりも霊妙なものだということでしょう。
肉体は霊なるハタラキの媒体と観ることも出来るでしょう。依代という。
そしてそのものが抜けると、物質的な土くれになってしまうようにも見えます。
でもそれ以上に例えば人間の表情などには、見えない霊なるものとのつながりを感じずにおれません。
肉体は思った以上にスピリチュアルなものなのですi(というようなのが今日のテーマなのでした)
エーテル体とかアストラル体とか言って、何がどう違うのかテンデに分かりませんが、総じて霊なるボディについてです...
って、前回も書いたようにアタシャ、そんなもん実感、体感したことなど無いのに、書けるかってんですi
霊界に移行したことも無いのに...私の目はまだ黒いi...有るのか無いのか分からんものを空想してるより、この肉体のこと考えてたらいいのi
しかし...この肉体というもの、本当にその物理的肉体のみによって捉えられるものなのでしょうか?
そう思われているだけなんじゃないでしょうか?...少なくとも私はそう思えないことをいつも実感、体感させられているのです。
例えば、"じんじんして来た、感じて来た"、というのが正にそうなのです。もっと一般的?なものでは、それとセットになっているような"耳鳴り"というのもそう...あれは耳から聞こえて来ないのが不思議なのです。(聞こえて来るのもあるけど、そっちは耳鼻科に行かなきゃヤバイやつかも?)
こういうものは、物理的肉体というものに限定されたところからは来ないように感じざるを得ません。
さりとて、そこから離れたもののようでもない...離れたら遊離する、現実遊離と言ってもいいような感じになります。
現実感覚と私はよく言ってますが、それはただの観念的な事態というものと区別するために言っているのです。
ではその現実感とは、肉体から来るのでしょうか?...いいや、そんなこと無いでしょう。
その他、私は単なる頭の記憶と区別するために"身に覚える"、というようなことを言ったりします。
身体と結びつけたような表現ですが、正確なものではなく、やはり思いの世界との違いを示しているのです。
こういう風な言わく言い難い感覚を、私はさらっと内的感覚とか言ったりするのですが...
こういう感覚というのは、肉体で無ければ一体どっから来るのでしょう?...霊体?
だから、アタシャそういう目に見えんものが、それ自体独立して存在するような体的なものは知らんのやってi(何故か大阪弁)
この話を分からなくさせているものは、肉体があって霊体(とされるもの)があるという、二元的な観方にあるのではないでしょうか?
私に現実感、私自身について言えば実存感をもたらしているものは、見えるものと見えないものが不可離の、霊肉一致体?(見えないものに体という言い方は適切なのだろうか?)のようなものではないでしょうか?
言い換えると、我々が肉体と思っているものは、思ったよりも霊妙なものだということでしょう。
肉体は霊なるハタラキの媒体と観ることも出来るでしょう。依代という。
そしてそのものが抜けると、物質的な土くれになってしまうようにも見えます。
でもそれ以上に例えば人間の表情などには、見えない霊なるものとのつながりを感じずにおれません。
肉体は思った以上にスピリチュアルなものなのですi(というようなのが今日のテーマなのでした)
自分は三十代でS会を離脱して、或る日スーパーのレジ前でその順番を待ってると、柄の悪い爺さんが割り込んで来た
「このボケ殴ったろか」と後ろから掴み掛かろうとした瞬間、自分の両足の外側に「足の中身」の様な波動、体を瞬時に感じました
俗に言うオーラとか「気」と言うものより精妙で確然とした存在感を持つ性質のものでした
その瞬間自分は怒りを忘れて自動的に足はUターンし、平静な心境に立ち戻りました
こりゃ宗教書とか神学のリテラシーとは無縁の、そこに臨在する現実として受け入れざるを得ない何か、な訳です
私はこれを「肉体的理性」と捉えてるんです
それでも十分或る意味「精神的」なものなんですが、真の意味での精神はもっと難しい、危ないものを含んでいるとS会の人に言われましたけどね
知りませんでした。
うーん、足の外側なのに、中身のように感じるのが微妙な感じですねえ。
やっぱり、ただ、抽象的に思うことよりも具体的に感じる何かなのでしょう?
バパ御自身は仏陀を覚醒者として認めておられたが、後の宗派、禅宗などには否定的な見解を持たれておりました
バパは青年期にイスラーム神秘主義の修行を受けていて、語法的にはイブンアラビーを踏襲するかの感じになっていますが、バパがクリスチャンなら違う用語で語られていたでしょう