私がいつもくどいように言っていることは、自分が思っているだけの世界からは、自分のことも、世界のことも何も分からないということです。
"思いを超えた..."というのは、何も形而上の何か(超越というとそのように受け取られてしまうようですが...)を持ち出すようなことじゃなく、要するに思われた世界だけからは与り知れないもののことです。
神、聖霊とか...仏教においては、これは玉城康四郎先生が強調され、キリスト教の聖霊とよく比較されていたように、"ダンマ"ということが出来るでしょう。
仏陀は、形而上の存在については、語らなかったようですが、ダンマというものはどうなのか?
それは仏陀に内在していた智慧が発現した、と言えるかもしれませんが、超越したものだろうと、内在したものだろうと頭脳智では与り知れないものには違いないでしょう。
このことを、いつも考えている自分から抜けることの出来ない、自分の現実に即してみたらいいでしょう。
一体、どうやって、仏陀は縁起観のような世界に目覚められたのでしょうか?、どうして思いの断滅などということが可能なのでしょうか?
仏陀は頭脳智で考え抜いた末にそうしたものが開かれたのでしょうか?...なら、あなたの現実に即してやってみたらいいでしょう。頭がパンクしても知りませんが...
"気付き"ということを一つとっても、思いを超えたものの消息が分かるのではないですか?
与り知れないもの...それは、この世が見ることも、聞くことも、理解することも出来ないもののことなのですi
聖霊、ダンマ、私的には現臨...それが何であるかは分からないし、知る必要もありません。
だから、"聖霊は真理のみ霊である"とか、"それは愛である"とか語られることはあっても、存在論、実体論として語られることは、聖書にはほとんど無いのです。
これはダンマについても仏陀は、それが何であるかについては無記であったのです。
所謂心霊学では、背後霊とか守護霊とか、それが何である、こうであるとかの客観的説明は成されていますが、聖霊についてはノータッチのようで、同じ霊でも全く範疇を越えているという感じです。
要するに、出来ないんですi...何故かというと、自分の実存と直に関わるものだからでしょう。
聖霊、ダンマは自分が受けて、与って初めて分かるものだからでしょう。
これは、その実存というものと同様でしょう。だから、私自身の生の実存は、所謂実存主義哲学を笑うしかないi
そして、私はこの与り知れないものについての、分かったような屁理屈(例えば聖霊、神のロゴスのことをただの言葉に置換してみたりなど)に接すると激しい憤りを覚えます。手島先生と化してしまいそうですi
与り知れないものについて、私が強く感じているのは、恩寵というものです。恩寵というものをこれっぽちも望んでいない人間のゴタクなど耳が、いや私のすべての実存が汚されるばかりではないかi...そんな人間などさっさと地獄へ落ちろ、ではないかi
恩寵無しに今の私はあり得なかった...恩寵だけで生きているような私が、そんな言葉を発してしまうのでしょう。
恩寵は望むものに与えられるでしょう。それを望まない人間は、恩寵を望むことがどういうことかも分からないでしょう。
それは、自ずと頭が低くならざるを得なくなる、ということですよi
このこと自体がどんなに自他共に救いになることだろうか?i...少なくとも、そこから新しい何かが始まって来るのですi
それは知らずして、与り知れないものに与ることに他なりません。
それは私の、あなたのすべての実存の喜びとなるものに違いないでしょう。
"思いを超えた..."というのは、何も形而上の何か(超越というとそのように受け取られてしまうようですが...)を持ち出すようなことじゃなく、要するに思われた世界だけからは与り知れないもののことです。
神、聖霊とか...仏教においては、これは玉城康四郎先生が強調され、キリスト教の聖霊とよく比較されていたように、"ダンマ"ということが出来るでしょう。
仏陀は、形而上の存在については、語らなかったようですが、ダンマというものはどうなのか?
それは仏陀に内在していた智慧が発現した、と言えるかもしれませんが、超越したものだろうと、内在したものだろうと頭脳智では与り知れないものには違いないでしょう。
このことを、いつも考えている自分から抜けることの出来ない、自分の現実に即してみたらいいでしょう。
一体、どうやって、仏陀は縁起観のような世界に目覚められたのでしょうか?、どうして思いの断滅などということが可能なのでしょうか?
仏陀は頭脳智で考え抜いた末にそうしたものが開かれたのでしょうか?...なら、あなたの現実に即してやってみたらいいでしょう。頭がパンクしても知りませんが...
"気付き"ということを一つとっても、思いを超えたものの消息が分かるのではないですか?
与り知れないもの...それは、この世が見ることも、聞くことも、理解することも出来ないもののことなのですi
聖霊、ダンマ、私的には現臨...それが何であるかは分からないし、知る必要もありません。
だから、"聖霊は真理のみ霊である"とか、"それは愛である"とか語られることはあっても、存在論、実体論として語られることは、聖書にはほとんど無いのです。
これはダンマについても仏陀は、それが何であるかについては無記であったのです。
所謂心霊学では、背後霊とか守護霊とか、それが何である、こうであるとかの客観的説明は成されていますが、聖霊についてはノータッチのようで、同じ霊でも全く範疇を越えているという感じです。
要するに、出来ないんですi...何故かというと、自分の実存と直に関わるものだからでしょう。
聖霊、ダンマは自分が受けて、与って初めて分かるものだからでしょう。
これは、その実存というものと同様でしょう。だから、私自身の生の実存は、所謂実存主義哲学を笑うしかないi
そして、私はこの与り知れないものについての、分かったような屁理屈(例えば聖霊、神のロゴスのことをただの言葉に置換してみたりなど)に接すると激しい憤りを覚えます。手島先生と化してしまいそうですi
与り知れないものについて、私が強く感じているのは、恩寵というものです。恩寵というものをこれっぽちも望んでいない人間のゴタクなど耳が、いや私のすべての実存が汚されるばかりではないかi...そんな人間などさっさと地獄へ落ちろ、ではないかi
恩寵無しに今の私はあり得なかった...恩寵だけで生きているような私が、そんな言葉を発してしまうのでしょう。
恩寵は望むものに与えられるでしょう。それを望まない人間は、恩寵を望むことがどういうことかも分からないでしょう。
それは、自ずと頭が低くならざるを得なくなる、ということですよi
このこと自体がどんなに自他共に救いになることだろうか?i...少なくとも、そこから新しい何かが始まって来るのですi
それは知らずして、与り知れないものに与ることに他なりません。
それは私の、あなたのすべての実存の喜びとなるものに違いないでしょう。
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