人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

そんなことは知らない!

2023-10-15 09:31:31 | 雑感
”私はねえ、こうしてブログ書いている時、思考から離れているんですよ!、何も思わなくても自然とインスピレーションが湧いてきて、スラスラと書けちゃうんですよ!、出来ちゃうんですよ!、そう私は出来るんです!”...

な~んてこと、書いた途端に多分、出来なくなりますよ!...元より出来ないのです!
”出来る!”って自分の能力を誇示したりする人ってのは、鼻摘まみたくなるよなクサイ人でしょ!
一寸前、職場で激しく口論してしまったのですが、相手は「お前、仕事出来るんか?、何年やってるんだ!」と詰め寄ってきました。イヤですねえ!、職人気質の野郎ども特有の心根!
能力、キャリア、とどのつまり力の誇示!...この先にあるのは暴力の行使しかないですよ!
私は10年ばかり今の仕事してますが、そこで、「(仕事出来るかどうかは)知らないね!」と答えました。
失敗しないように、他の人の迷惑にならないように心掛けていますが、(職場ではあるように見せかけることはあっても)ホントに自分に能力があるかどうかは知らない、知らなくていいのです!
これは、精神的な道にあっては特に言えることでしょう。
4年ばかし前には、あるキリスト教系の集会でやはり口論(そんなにしょっちゅうはしませんよ!)になって、信仰熱心で、信者歴の長そうな相手は「あなたには福音の教えが分かってない、分かっているのですか?」みたいなことを向けて来たので、やはり「そんな、自分は分かっているとか、自己義認みたいなこと言えるか!、そんなことは知りませんね!」と答えたのでした。
私は出来る、分かっている...長年も続けていたら、人前で“出来ません、分かりません“なんて言えなくなるのでしょう?
しかしそれは、出来ること、分かること、正しいこと、進んでいることを自分に帰していることで、クサイことなのです。
自分がこうして書いていて、思いから離れているかどうかって?...そんなこた、知らないですよ!(思うんならそうじゃないんでしょ?)
我を忘れるというのは、そういうことじゃないですか?
要するに、思い、為そうとする自分じゃなく、自分を超えたものにあってそうなるってことに尽きるのです。この私の知ったことじゃないでしょう?
私には分かっているのです(え?)。私が人一倍自意識が、自我心が強いことを!
だけど、どうしてもそういう心根にある時、いつも内心は恐れ、不安といった思いが拭えないのです。自分に帰している力は本当は無力で価値が無い、否その自分がそういうものじゃないか?、という思いが!...これ、自分自身のことが本当は分かっていないということに他なりません。
しかししかし、このブログを書き続けている内に、そう、意識を神的なものに向けるということが身についたら、何とらく~に、自由になることが出来たではないか!
出来た?...だからそうじゃない、そうさせられた次第なのです。
ドイツ人ならともかく、日本には昔から自分をあまり表に出さない、力を誇示したりしない謙譲の美徳というものがあります。(分かるか?、そこのオッサン!)
しかし、このことは社会規範、道徳として語られるのみでは、実存的意味を見い出すことは出来ないでしょう。
あなたはいつも何かと戦っていたい心持ちでいたいのか?
それとも愛、安らぎを求めているのか?
あなたの移ろい、揺れ動く思いでなく、あなたの本心、あなたの神に尋ねてみて下さい!...
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