人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

好選手目白押し、日本人ボクサー

2024-07-21 10:22:21 | 雑記
半年ほど前、日本ボクシング界の黄金時代到来か、と中谷潤人を始めとした、トリプル世界戦のことを書いたのですが、まさかバンタム級の四つの世界王座を日本人ボクサーが独占してしまうようになっていようとは!...
その真打ちと言っていい中谷は、又々あ然とするような強さを見せつけて初回KO勝ち。
相手のアストロラビオは、「パンチが見えなかった」と言ってましたが、あの中谷のカマキリ.スタイルは、顔の辺りばかり意識させられ、ボディに強打が飛んで来るとは思わなかったのでしょう。ああいう秘密兵器があったとは!
本人は、井上拓真との統一戦を希望しているようですが、どうしてもその先に見据えられているであろう、井上兄とのモンスター対決に興味が行ってしまいます。
中谷のマトモに強打を食らった場面は、あまり見たことありませんが、あのひ弱そうな見た目の本当の耐久性はどうなんだろう?、あの半身のカマキリスタイルを突破出来るのだろうか?
モンスターの次戦も二転三転の末、ようやく決まり、フェザー級への転向も話題になっているようですが、もうこの相手は避けて通れまい!...何よりファンは納得しないでしょう?、何しろ、日本人同士による初のPFP対決なんですぞ!...信じられない!
井上弟の方は、個人的にはアマ時代からの宿敵、試合が流れて残念だった田中恒成との試合を見てみたいです。
そして又、バンタム級戦線を新たに確実に脅かす新星が出現!...そう、那須川天心。
こんなに短期間で、モデル.チェンジ出来るボクサーは見たことありません。
つい二戦前の試合を見た時は、防御の見切りがいいのに関心したけど、あんな手打ちではKOは望めまいと思ったものでしたが、踏み込みが鋭く、体重の乗ったパンチを打てるスラッガーに変身してるではないか!
これは、もう武居由樹との対決は必至かと思われます。その武居は、急遽九月に比嘉大吾との防衛戦が決まりました。
比嘉の、あの売り出し中の頃のノンストップ攻撃がよみがえれば...どっちに転ぶか分からないです。そうなると、天心との一戦は?...
要するに、このように日本人ボクサー同士の対決が次々実現して行きそうな流れにあって、どっちを応援したらいいか分からなくなってしまうということなのです。
何かみんな、昨日の田中のリング上の挨拶のように好人物のように見えて来て!
中谷の勝利者インタビューで横に座っていた、オラスクアガ選手もすごく親しみを感じて、何か青い目の日本人みたいに思えて、応援したくなりました。



コメント (2)
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段階を超えて

2024-07-20 09:28:14 | 覚醒
悟りや精神的覚醒を求めて探求、修行などに打ち込む...
自分は、まだそれに与るにはまだ早いと感じてか、その理論的なものを理解しようと、色々思考を巡らす、又はそれに見合うよう善行に励み、道徳性を身につける...あるいは身体的鍛錬に取り組んだりする...
その境地に至るには幾つか段階があると踏んでいる訳ですね。
しかし、そうしている間に、神の方からそのみ手が迫ってきたらどうするのですか?
神の手に捉えられてしまうのですよ!
“自分にはまだ早いからも少し、そう、あと2.3年くらい待って下さい!“、とその声なき声の主に訴えるのですか?
こんなナンセンスなことは無い!...一体何のための探求、修行なのでしょうか?
こういう人は、その前段階的な探求、信仰、信念、修行などにご執心なだけで、その実それに与ることなど望んでなどいないのでしょう!
つまり、悟りに至る諸々の段階というものは、ただそのように考えられているだけ、ということなのです。つまりこれは、全く思慮分別を超えているということなんだってば!
神の手に捉えられるということは、段階もヘチマもなく、それを受け入れるか、どうかだけしかありません。それがあなたの神の時なんです!
もし、先のように神に訴えるとしたら、その時を逸してしまうことになるでしょう。
今生でそれに巡り会うのか、何度生まれ変わっても巡り会わないかもしれないのですよ!
だから、そんなナンセンスなことは無い、と言うのです!
現実的には、もし、神の手の迫りを感じたなら...ジンジンと心身に何かが浸透して、震えてくるような感じ、意識が何かの中心に集まってくるような感じ、何も考えられなくなるような感じを覚え始めたら...
まだ思考は働いている...一体何が迫っているのか?、神か悪魔か?、自分のような人間に関わるのだからきっと低級霊の類に違いない?...しかし、その迫り来るものの向こうに感じられるものは何だろう?...何か人生で経験したことの無い、とても喜ばしきものなんじゃないだろうか?...
この最後のものが感じられたなら、もはや手遅れでしょう!
それで、一気に“意識は持って行かれ“てしまうのです!
人生で経験したことの無い、愛、平安、リアリティ...この前にはどうしたって抵抗出来ません!
抵抗する人間は、さっさと人間をヤメるべきです!
...というようなことを書いて、始めて神の手に捉えられた数十年前、私はやっぱり人間として未熟だった、と思わざるを得ません。
でも、それに与るに際して、幾つか段階を踏まなきゃ、と思ったことはありませんでした。
どこかで、“神に出会う段階“は、人間が歩む段階を全く超えていると感じていたようでした。...





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祈れない時こそ

2024-07-18 09:30:06 | 祈りと瞑想
当たり前のことながら、私はいつも、神に思いを向け、心安らかで居られる訳では無いのです。
心乱れ、むしゃくしゃすることだってあるのです。私は、どっから見ても普通の、一寸冴えない人間にすぎないのですから!
勿論、“これじゃあ、イカン!、神に思いを向け、祈らなければ!“、と思ったりもしますよ。で、“祈ったって、どうにもならんのじゃないか?“、と思ったりもします。
何を思ったって、何にも始まって来ないですよ、思ってるだけだったら!...
そして、何でもいいから、どうにもならなくてもいいから祈ってみる(最初はそんなんですよ!)、神に向けてみる...
すると...ウソのようにいつの間にか、そんな不調和な思いが晴れて来たりするのです。
こういうことはもう、しょっちゅうなのです。(まあ、しょっちゅう、むしゃくしゃしてるってことかもしれませんが...)
そのたびに、“ああ、私自身を取り戻した!“、という実感を覚えます。
お分かりのように、私にとって祈りとは、神に思いを向けることと同じなのです。とにかくどんな思いも神に投げ入れる...自分も投げ入れる!...祈ることは、そういう場所が出来ることなんです。
真面目な人は、“そんな神に顔向け出来ないような思いでは祈ることなんて出来ない!“、な~んて思うのかもしれませんが、それが根本的にズレた考え方なのです。
神はすべて見通し、すべてに通る!...何故自分を隠すことなど出来ようか!、顔向け出来ない、なんて何故向けようとしないのか?...バチが当たる?
当たったらいいではないか?...それは、神の実在を証明することになるではないか?
そいつが当たったら、多分、目が覚めずにおれないだろう!
神、真我につながるには、どうしたらいいのか?...いつも言うように、私は特定の方法に依拠したりしませんが、ただ、祈ることはあるのです。
私はそれを通常思われているような方法とは思っていません。それは、考えている私が行う何かだ、と思っていないからです。
祈りは、神に思いを向けること、本来の自分を取り戻すこと...不調和な状態に対する絶大なる対処法であるのは、言うまでもありません。
これは、私の悪しき心の状態から善なる方に変えようとする意志的努力によるものでも、何時間、何回祈るか、という自分の力で図るようなことでは全くありません。
そういうことでは、この消息のことは、絶対に分からないでしょう。
これは、私の思いを超えた、神的なハタラキによって成されることなのです。
例えば、よく知られる一定の座法、呼吸法などのメソッドを伴う瞑想などでは、先のように精神状態が不調和な時や、病床で苦しんでいる時などは、行うことが困難ですが、祈り、神に思いを向けることなら出来ます。そういう時こそ祈ってみる...いつの間にか、何か開かれて来る、心が安らかになって来る...
こういう、生きることが難しい時代だからこそ!
騙されたと思って!...自分はダメだ、世の中がダメだ、神も仏も無い、いいことなんて一つも無い...なんて思っているだけなら、祈ったらいいのです!
いや、この夏は熱中症との戦いが待っているではないか?
立ってても、歩いてても、寝てても、倒れてても...祈ることは出来ます。
私が祈らなくても、祈れなくても、一寸向ければ、神の方が通られる...

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神人のみ実在する

2024-07-17 09:44:43 | スピリチュアル
前回の続きというか、精神的な道については、いつもこのことに触れざるを得ません。
それは、言うまでもなく神と自己の問題です。宗教、スピ、哲学...これが焦点とならないものは無いと言っていいでしょう。
それで前回、”私が居て神を信じるのでなく、神があって真我があるのでも無い”、と書いて、書き終えた直後、ベルジャーエフが「神人だけが実在(実存)している」という重要な言葉を残していたのを思い出しました。これが“神、真我のみ実在している”ことを端的に表しているものでなくてなんであろう!
ただ、ベルジャーエフのこの言葉は、多く神人キリストに結びつけられているのは確かなことです。
”キリストを通さずして神につながることは出来ない“
それはしかし、キリスト教のみに限定されて語られるものでは無いはずです。
いつも言うように、神は我々の思いを超えた超越的存在です。
だがしかし、全く我々と何ら関わることの無い、超越の彼方にあるような神について、どうして私は、いつもクドイほど書き表すことが出来るのでしょうか?
ローマ時代の神学者テルトリアスは、神を信じることについて「不合理なるが故に我信ず」と言いました。
我々に何も関わらず、合理に合わないものを何故信じることが出来るのでしょうか?
それは、そこに何か信じざるを得ないような、あるものを感じているからなのではないでしょうか?
合理に合わないものは、理屈じゃない、そういうものは、信じざるを得ないのです!
見えない、考えられない、しかし感じられる...肌で触れるものよりももっと深く、私自身と切り離されないようにも関わるようなもの...
真に神を信じるとは、先見的な観念を信じることでなく、このように実存的な事態のことを言うのです。
その、自己と神を分かち難く結びつけているもののことを、ここで神人と呼んでいるに他なりません。
仏教的には、釈迦に現れたブッダ、法蔵に現れた阿弥陀如来(これは、イエスに現れたキリストに対応している)、又禅宗的には、無位の真人と言ってもよく、それは凡夫の我々に真我が現れるようなこととも言えるでしょう。
聖霊のように、我々を超えてハタラキかけて来るもの、我々の内奥から呼び覚まされるもの、この神人的なもの無しに、我々は現実に悟ることも救われることも出来ないのです。
神について、宗教などでは盛んに語られることはあっても、我々に直感されるものでなければ、ただ想像することしか出来ません。
神が直感されるならば、真の自己が目覚める、自己が目覚めなければ、神は顕わにならないのです。
一個なる自己からは、決して神を知ることは出来ない。神の方が臨むことから何かが開かれる、そこに望みが生まれる...
私がいつも神の現臨について書かされているのも、そういうものをますます感じてのことなのです。
それは、神人の真実がいよいよ明らかにされるということを示されているのでしょう!...
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神、真我のみ実在する

2024-07-15 10:04:56 | スピリチュアル
五井先生は、「神のみ実在する」と言い、ラマナ.マハルシは「ただ真我のみ実在する」と言いました。
精神的な道には、数多の思えや方法がありますが、根本的にはそういうものしかないのではないか?
いやもう、年々、本当にそう感じて来てなりません。
私的には、この役立たずの、業の深い私が実在するようにも思えますが、そういう私の業的行状の数々のこともあるのだろうけど、来ては去りゆくもののようにしか感じません。
しかし、ここにずっとずっと息づいているものがあるではないか?
ある時、神の臨在というものをアリアリと感じた。又ある時、私の内奥から、思っていたものでまるでない、我ならぬ我がぬくぬくと立ち現れたのを感じた。...しかし、それはその時々の体験といったものでは無かった!...それは、この今の今、感じていることではないのか!
このアリアリと感じられるものは、そういうものばかりなのです。
神と自己...私が居て、神を信じ、従うのではありません。神があって、真我があるのではありません。私だけの私は真の自己ではなく、神だけの神(理念上の、思念された神)は神ではありません。
分けられないものが実在するのです。実体的には分かりませんが、そのように意識されるのです。
教えというのなら、幾人かの教師から魂を揺さぶらずにおれない教えを拝聴してきました。しかし、それらはすべてこの”神、真我のみが実在する”、ということに関連していたのでは無かったか?
末節的なこと、非本質的なことは何も残っていない、何も身についていないのです!
それらは、来ては去りゆく消えてゆく姿なのでしょう。
然るに、何故特定の宗派にしか通用しない教え、メソッドなど方便的なものに固執する向きが多いのだろうか?
自分が信じている教え、又は自分が作りだした理論...固執すればするほど、”実在”からは切り離される...一個の自分が信じ、従っているものは、”切れ端”に過ぎないにも拘わらず!...
時代、ところを超えた、普遍的な教え、方法などが存在し続けた例などどこにも無いではありませんか?
自分と思えや方法が二つになっているものには、浮いた、切り離されたもののようで、実在性は感じられないのです。
それは、二つで一つ、すべてで一つのものであるはずなのです。
形、方法を超えたものを意識しなければ...又、意識されるものはそういうものでしかありません。
一個のように思える私を意識してみる...私は何か、と考えるのではなく意識してみる...
意識されるものは、個だけのものではない、そう在らしめているものが一つに意識される...
ただ、一つ貫いているものは、その一如となったものばかりではないか?!...
しかし、最初から一つになっているものには、そもそも意識されるということもないでしょう。
だから、どうしても私は、神と自己の二つで一つのものに意識が向いてしまうのです。






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