人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

求めてやまないものがある

2024-07-14 10:04:11 | 求道、探究
何ごとにおいても、その気が無ければ求めているものに与ることは出来ません。
その気があるということは、意識がその求める方に向いているということです。
これは、”意識を集中しなければならない”、なんてことでなく、自然に向いてしまう、集中されてしまうということなのです。
悟りを開くという言い方はともかく、精神的な目覚めに与るような、神に捉えられてしまうような人というのは、話をしていたら大体分かるものです。
そこでは、宗教やスピ界隈で流布されている、例えば、悟るまでには何段階あるのか、とか神は何次元の存在か、といったような”お話”の数々のことは、まず語られることはありません。
それらはすべて、人伝に聞いた、観念に浮いた理屈に過ぎないのです。
そういうお話に夢中になっていることは、理屈を求めているのであって、ちっとも本当の、リアルなスピリチュアリティを求めている訳では無いのです。
自分は何段階にあるのか、とか何次元の神を求めているか、というようなことにトラワレているような人間は、すべてで一である現実に向き合おうとしていません。
何故、他人事みたいなことに構うのか?
それを受け入れるかどうかだけではないのか!
その気の無い人間は、いつまで経っても、あの教え、このやり方を求めて同じところを回り続けているだけなのです。
マニュアルみたいなものに従っているだけで、本当にその気が、求める気持ちが無ければダメです。
だから、求めなければならない!
だけど、その求める気持ちは落ちなければならない!、手放さなければならない!
いや、そうならざるを得ない!...
そうなのです!...神の手がかかるということは、恋に落ちることみたいなものなのです。
神に捉えられることは、愛に捉えられることと同じなのです。
だからだから、考えている自分からは決してそうなりません!
なんで、そこに段階、レベルなんてものがあり得ようか?
どんな理屈も、理論もヘチマもありません。何、マニュアルだと?...:ふざけんな!
本当にその気のある人なら分かっているはずです。
そうさせるもの無しにはそうならないことが!...
自分の内側から突き上げてくるような、そのものを呼び覚まさずにおれないもの...
つまり、自分が求めるというよりも、そこに求めてやまないものがあるということなのです。
こちらとあちらが、このリアリティの中で合う...
やはり神と人は愛によって結ばれることを感じてなりません。






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内なる神と人類

2024-07-13 09:42:03 | 
神は人の思いを超えたもの...
もう、私はこのことをマントラのようにいつも言っています。
そういうものをいつも感じているのですが、それは端的にどういうものかというと、やはり愛としか言いようのないものなのです。
愛というものも、より我々に近しく感じられるように、思いを超えたものでしょう。
このことで、自己と神は分かち難い関係にあるもの、ということを言い表しているのです。
だから、愛念というものが深まれば、神的なものを感じるようになるし、その逆にもなるのです。
にも拘わらず、これまで多くの宗教で、神は我々に隔絶した、万有の創造主、支配者として、又善悪を裁定する裁き主というようなイメージを与えてしまい、我々の意識から遠ざける傾向を作り続けて来たようです。
そこに、五井先生などは、神の“守護の神霊”という面を強調し、世界平和を祈るということで、愛念を起こすことを勧めたのでしょう。
それ以前にも出口王仁三郎師は、“瑞の御霊“として、神の救済のハタラキを表し、”人類愛善”を唱えたのでした。
ただ私などは、その人類というものが、私自身の現実からは隔絶したもののように感じてならないのです。
何よりも、神との愛というものは、自分自身との関係において、内側から示されなければ、本当にリアルなものにはならないでしょう。
この意味で、平和という言葉はちょっと抽象的であり、愛の具体的な表れは、平安という響きとして実感されるものでしょう。
いやだから、ホント~(リアルに)に、愛と平安は分けることが出来ないのですって!
もう私は、超越的な神というものは、思いを超えていることを直指しているものであれ、自己と超絶したものとして感じることは出来なくなってしまったのです。
思いを超えているということは、それだけ私に近しく、一つになるということに他ならないのですから!
そして、この私なるものも、一個なるものを超えて、他者性とつながるもののように感じ始めるのです。
その他者は言うまでもなく、抽象的な人類といったものでない、言うなれば、具体的な”私の内なる人類性”といったものでしょう?
そういう愛、平安に与るならば、それが一人でも多くの者に、それが分かち合えるようになるのを願わずにおれなくなるのが、自然なことではありませんか?
言葉、形は如何なるものであれ、神的なものと愛念で一つになる祈りが広まり、深くならんことを!...
一人一人に愛が浸透すればするほど、思いを超えた神的なハタラキが顕わになる...
そして、それは逆のことでもある!
私の願い、祈りは願わされ、祈らされているのでしょう!...




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神の愛の支配

2024-07-11 09:30:53 | 
神は何かは分からない...
いつも言うように、神の実体は分からないのです。
だけど、こうして書いているだけで、私の思いを超えたあるもののことは、ジンジン、アリアリと感じられるのです。
それを言葉で表せるもので、すぐ思い付くものとして、“愛、平安、リアリティ“という風に表しているのですが、それは別々に感じるものでなくて、三位一体というか、分けられないものなのです。これがこの一個なる私からは絶対に出て来る訳がありません。だから、これは神ったことなんです!
この神的なものを一つの属性で表すことなど到底出来ませんが、強いて表せば、私は“愛“を思い浮かべます。
愛があるところ、一個というものは無いのです。だけど、そこには他者性というものが前提になっています。その自他が一つになることが愛のハタラキなのです。それは勿論私と神の関係でもあるのですよ。
しかし、こういうことを未熟な私のこと、四六時中感じている訳では無いのです。そうなったら私は多分ラマナ.マハルシのようになれるでしょう?
もう、忘れる時は簡単に忘れちゃいます(笑)。特にH系に走るとか、短気を起こす時とか(要するにそれが私の弱点なんです)が多いのですが、もう、そうなったら神も仏も無い!(笑)
私と違って真面目な信仰者などが思っているであろうような、それを阻止する力がある訳でも無いし、そのお咎めというものも無いんだから簡単にそうなっちゃうんです(単に道徳心、克己心に欠けるだけなんでしょう?)。
神は万有を支配しているなんて言うけど、私は神に支配されているなんてことは、ほとんど感じていないのです。それを言うなら私は私の思い、欲望に支配されているんだ!
これが簡単に神、愛を忘れるということの全くの裏返しなのです。
ベルジャーエフは「神の力は、赤子よりも無力だ」と言いました。
それくらい、簡単に忘れる、又蹂躙することも出来る!...
だけど、本当は、ホント~には、泣く子、子猫には勝てないのです!
この力は一体何だ?!...それは全ての力学的な力というものを超えたものに違いない!
それに打ち勝つことは勿論、逃れることなど絶対に出来ようはずなど無いではありませんか!
そうなれば、私は私で無くなるだろう!...これは、そのもの無しでは私は実存出来ない、と言っているのですよ!
だから、簡単に忘れることは、簡単に戻ることが出来るという、これ又裏返しがあるのです。
この世界には権力や法の支配など、支配する、される関係というものがあります。
しかし、その根底には支配でない支配、全ての支配を超えた、愛の支配ともいうべきものがハタラいているのを感じずにおれません。
表層に隠れ、感じられなくなったとしても、無くなったのではない、根底に生きているものは、それに立ち帰ることが出来るのです。
神の愛の支配は、けっして廃れたことは無いのです。
神は、何か超絶的な力を持って世界を支配している、と信じ込んでいる人は多いでしょう。
真相は勿論分からないですが、私には、太古の昔、支配力ならぬ愛の支配によって神は世界を治めていたが、ある時代に別なる神(?)が、力の支配を持ってそれを蹂躙し、元の神に取って代わったということがあったように想像されるのです。
神と人間の分離は、その時から始まったのではないか?

ああ、私は何度あなたの愛を裏切り続けたか分からない...
でも、私の中にはしっかり、あなたのハートの文字が刻印されている...
段々鮮明になってゆく...表に顕わになってゆく...
あの御方と一つになれるかどうかは、誰も何ものも強制出来ない!...どこまでも私次第!
それが自由なる愛の掟!...

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ダンテス愛を語る

2024-07-10 10:10:26 | 人生の裏側の図書室
「じゃあ、おとぎ話をするよ。ええとね、今から三万年前の話」
...という語り出しから始まる、ダンテス.ダイジの講話録「十三番目の冥想」(SCL刊)を読み直してみましたが、その冒頭部分は、現代を生きる我々にとって、いや、すべての人間にとってと言ってもいいほど、実に大切なことを示唆していると深く感じ入りました。
これは、リチャード.バックの小説「イリュージョン」中の詩的な挿話「救世主入門」を解説したもので、彼の名前に由来する、「ダンテス」が三万年前の伝説の大陸アトランティスの時代に活躍した人物だったことからそのように話が展開されたのです。
勿論、アトランティス大陸が実在したかどうかは確証出来ないし、その話の内容も神話じみています。
その伝説の大陸がどうして沈没してしまったのかという経緯もエドガー.ケーシーの本だったかで、真偽はともかく私も大体のことは知っています。
それは、念力とか精神的な力が偏って強大になり、不調和を引き起こしたためとされます。
しかし、ダイジが言うには、元々はそうした力は、愛に基づいて成り立っていたと言うのです。
愛は容易に忘れられ、失ってしまうのか?...「その愛なんだ。これが一番確かな実在であり、同時に全てなんだけど、最も忘れやすいものなんだ」(同書より)
さらに、ダイジは、愛の性質についてトクトクと語り続ける...愛は咲いた花のように周りに振りまくが、愛してくれ、などと強要したりしない。
愛するかどうかは人まかせで、人が愛から離れても文句は言わない。
それは、愛から離れた何かの力によって、愛を蹂躙したとしてもそうなのでしょう?
アトランティスの晩期、高度な精神的な力は発達したが、それと共にあった愛は切り離され、失うに至ったのです。
愛を失った、分からなくなった!...それは、心の安らぎ、それから切り離された知性からでない、本当のリアリティというものも分からなくなった、ということでしょう?
三万年前のアトランティスの時代と現代、一体何が違うというのでしょうか?
愛、安らぎ、リアリティから離れて、我々はどこへ向かい、どこに落ち着くというのでしょうか?
一つ違いがあるとすれば、(伝説によると)一念の元に世界を破滅させるようなとてつもないオカルティック.パワーは、まだ我々は持ち合わせていないということでしょう。
このどこまでも、自分が破滅するまでも、高く、進もうと駆り立てる力の衝動に歯止めをもたらすもの...それは愛に他ならないでしょう。
ダンテス.ダイジは語る「あのね、例えば、観念は力なりといって、念ずることは実現するとか...どんなこと言ったって、この宇宙をひっくり返すことなんて出来ないの。...だけど愛にはそれが出来る」
最愛のものに捉えられたら分かる!...それは人生で最高の瞬間では無いのか?!
愛は本当は無くなった訳では無いでしょう。何故なら、いつだって人間は、そうと分からずしてそれを求め続けているではありませんか?
ただ、それは他者から獲得するものでも、愛してくれ!、といって与れるものでは無いのです。
それが感じられない、分からないという、その苦しみを自覚した時、ごく身近なものを通して気づかされるものなのでしょう?
愛は強要されるものでも、それを無きものにしても愛自らには責められない...
それは、、アトランティスの超古代(?)でも今でも、愛は本来我々から離れたものではないからなのでしょう!...



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私自身の現実

2024-07-08 09:54:13 | 求道、探究
前回、行動の基準になるものとして、“愛、平安、リアリティ“を感じているかどうかということを書いたのですが、そう感じないもの、いや真逆に感じるものというのも勿論あります。
顕著に感じるのは、“何か閉じられる、離れてゆく、落ち着かない...“といったものです。
従って、先の感じとは、“開かれる、収斂されてゆく、落ち着く“感じと言い換えてもいいのです。
こういうことをもっと分かりやすい、触覚的な感覚にそって言えば、“ジンジン“する感じと“ザワザワ“する感じと言ったりするのです。
その中で、“開かれる、閉じられる“、というのは、そうした意識の動きのことを言っているのです。向かう、向かわない...入る、入っていかない...
次に、“何かの中心に集まる、収斂されてゆくか、てんでばらばらに、遊離してゆくか“、ということも意識の集中してゆくかどうか、ということを表している訳ですが、何度か触れているように、それは意志想念の力でそうするのではなく、無為自然にそうなることなのです。
こう書けば、後の落ち着くということがどういうものか、ということは、説明しなくともお分かりになるでしょう。
これをもっともっと端的に言うことも出来ます。それは...私自身で居られるか、そうでないか...
“ああ、この本は全く私向きで無いわい、私には縁が無い!“、“この本は、私自身のことが書かれているではないか!“
私自身から離れてゆく感じを表すものとして、現実遊離した感じというものがあります。
これは、必ずしもその内容がそうであるということでなく、現界のことだろうと霊界のことだろうと、私自身の現実から遊離しているということを意味しているのです。
私自身の現実とは、私の自己実存、私がここに在る現実という他ありません。
そしてそれは、そう在らしめるもの、自己を超えたものが現臨、現前しているということなんです!
ああ...もう、この言葉を何回繰り返してもいい!...だって、それが愛、平安、リアリティに与ることなのだから!
これは、私が私を生きていること、私自身であること(それは神の現実と切り離されるものではない)がそうなのだ!、と言っているのですよ!
つまり、私自身であることが幸福なことなんだ!
何で、それを私が本当に、ホント~に、信じても、受け入れても、愛してもいない神やアヴァターなんかに求められようか?
何で、この現実から離れた、何次元の世界とか、来ない先の世界などに思いが飛んで行かなければならないのか?
そこに、本当に愛、安らぎはあるのか!
あなたの本心、あなたの神に聞いてみられよ!

いや、もうこの夏は、先が思うやられるほど、ハンパなく暑いです!
いつ、思いがどっかへ持って行かれるとも限りません。
それは、自分が自分で無くなるか、もっともっと自分自身になるかどうかの際に立たされている、この時代のことのようでもあります。

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