(つづき)
「的場一丁目」。
かつての「博多温泉」。
斜めに入った突き当たりが、かつての奥博多温泉センター。
周囲は容積率200%なのに、この付近だけ、商業地並みの400%に指定されていることにもその名残が。
バスが通り始めてから現在に至るまで、「49番」以外のルートになったことがない場所(おそらく)。
都心方面と、
郊外方面。
「49番」については、「弥永団地」の記事や、40番台全般についての解説の記事なども参照のこと。
(つづく)
(つづき)
「的場一丁目」。
かつての「博多温泉」。
斜めに入った突き当たりが、かつての奥博多温泉センター。
周囲は容積率200%なのに、この付近だけ、商業地並みの400%に指定されていることにもその名残が。
バスが通り始めてから現在に至るまで、「49番」以外のルートになったことがない場所(おそらく)。
都心方面と、
郊外方面。
「49番」については、「弥永団地」の記事や、40番台全般についての解説の記事なども参照のこと。
(つづく)
当時の福岡の天神や一丁目付近からクルマで二日市に向かう一般的でオーソドックスなルートは、野間から大橋、井尻、雑餉隈、そして3号線に入るルートでした。このルートも、大橋の交差点(東大橋バス停付近)を過ぎると、一気に両側に水田が広がるのどかな道筋になり、夜は真っ暗で寂しいものでした。
そんな中いつ頃だったか、那珂川を渡ったあたりの右側に突如眩しい灯りに包まれた看板が立ち、そのはるか向こうの田んぼの中に不夜城のごとく煌々と光り輝く建物が姿を現したのです。
看板にある「奥博多温泉センター」の「温泉センター」の部分は、当時の一大パラダイスであった「唐津シーサイドヘルスセンター」にも通じ合うものを感じ、おまけに看板の中に「ラドン」の文字も見えることから、怪獣のショーなどもやっているのではないかと、二日市に帰る父の運転するクルマの中で、ワクワクしていたものでした。
一度行ってみたという祖父の、「唐津に比べればぜんぜんつまらん」という厳しい評価のせいもあり、結局一度も連れて行ってもらえませんでした。
そのうちに、新幹線の高架線路(車両基地までの)が通り、奥博多温泉センターまで見通すことができなくなりました。
49番は、天神交差点を南から西へ曲がる、という、それまでの福岡の常識にはなかったルートで、びっくりしたものでした。私は、古くからの市電のルートの呪縛から解き放たれ、ルート設定の自由度が増したものと解釈していますが。
奥博多温泉センターは、私が子供の頃に閉鎖されたようですが、知人が近くに住んでいたため、川沿いにどてかい建物が建っている光景は頭の中に残っています。
営業していた頃に、中に入ったこともあったはずなのですが、外観とかどの道を通ってそこまで行ったかの記憶しかなく、内部の状況が思い出せません…。
49番、ルート設定の自由度が増して移動の多様性提供に寄与したのはたしかだと思いますが、ただ、飯倉行きができた時点で、60番桧原循環は存在していたと思われます。