中央競馬関係ブログを紹介したのですから,地方競馬関係ブログも。
まず,南関東で活躍する高橋華代子さん。メーンはダートの華道で,これは更新頻度が高いです。ほかに楽天競馬内の栗色競馬,日常を綴る栗色写真,文章のみの栗色日記。さらに大井で重賞・南関東重賞が行われるときの,重賞レース情報。ほかに,日替わりライターブログの執筆者の一員でもあります。このライターブログの一員の中では,古谷剛彦さんのなまらふるやっち,山中寛さんの山中の満腹感,大川充夫さんのミツオーのセカンドボイスも僕はチェックしています。
予想関係では,渡辺敬一さんの独断と偏見。これは大井競馬のみですが,大井競馬開催中は毎日更新されます。そして吉川彰彦さんの地方競馬日記。こちらは毎週火曜の更新。南関東では大抵は重賞・南関東重賞は水曜に行われますので,その予想。行われないこともありますので,その場合は回顧になります。
ほかでは小山内完友さんの俺達の南関東競馬。予想あり,回顧あり,日常ありです。
そして古川浩さんのホッカイドウ競馬を愉しむ。これは名前の通り,北海道競馬関係ですが,種牡馬展示会のレポートなどもあります。
地方競馬関係で僕がチェックを入れているのはこれくらい。僕は南関東中心ですが,ほかにもよいものがありましたらお知らせください。また,これは中央競馬関連になりますが,日本経済新聞の野元賢一記者のコラムを追加しておきます。
それでは第二部定理五を証明します。
まず,第一部公理三により,観念が実在するためにはその観念が実在する何らかの原因がなければなりません。次に第一部定理一五により,すべてのものは神がなくては実在することができません。よって観念の原因が神であるということはこれで明らかです。このことが大前提となります。
そこで今度はある観念Xがあるとして,このXの原因をAと仮定した上で,このAがどのようなものでなければならないかということを具体的に考えてみます。
まず第一部公理四により,この場合はXの認識はAの認識に依存することになります。いい換えれば,ある知性がXの観念,この場合は十全な観念ということになるのですが,Xの十全な観念を有するためには,Aの観念,この場合もAの十全な観念を認識していなければなりませんし,逆に,もしもAの十全な観念を認識しているならば,Xの十全な観念を認識しているということになるでしょう。
しかし第一部公理五によって,もしもAとXに共通点がないならば,どんな知性もAを認識することによってXを認識することはできません。よってこの場合は,AとXの間には共通点があるということになります。
ところで,AとXに共通点があるということは,AとXが実在的には区別されないということを意味します。よってAとXは同一の属性に属します。つまりXが観念であるならば,観念は思惟の様態ですので,Aは神ですが,それは思惟する限りでの神,いい換えれば神の思惟の属性であるということになるのです。
まず,南関東で活躍する高橋華代子さん。メーンはダートの華道で,これは更新頻度が高いです。ほかに楽天競馬内の栗色競馬,日常を綴る栗色写真,文章のみの栗色日記。さらに大井で重賞・南関東重賞が行われるときの,重賞レース情報。ほかに,日替わりライターブログの執筆者の一員でもあります。このライターブログの一員の中では,古谷剛彦さんのなまらふるやっち,山中寛さんの山中の満腹感,大川充夫さんのミツオーのセカンドボイスも僕はチェックしています。
予想関係では,渡辺敬一さんの独断と偏見。これは大井競馬のみですが,大井競馬開催中は毎日更新されます。そして吉川彰彦さんの地方競馬日記。こちらは毎週火曜の更新。南関東では大抵は重賞・南関東重賞は水曜に行われますので,その予想。行われないこともありますので,その場合は回顧になります。
ほかでは小山内完友さんの俺達の南関東競馬。予想あり,回顧あり,日常ありです。
そして古川浩さんのホッカイドウ競馬を愉しむ。これは名前の通り,北海道競馬関係ですが,種牡馬展示会のレポートなどもあります。
地方競馬関係で僕がチェックを入れているのはこれくらい。僕は南関東中心ですが,ほかにもよいものがありましたらお知らせください。また,これは中央競馬関連になりますが,日本経済新聞の野元賢一記者のコラムを追加しておきます。
それでは第二部定理五を証明します。
まず,第一部公理三により,観念が実在するためにはその観念が実在する何らかの原因がなければなりません。次に第一部定理一五により,すべてのものは神がなくては実在することができません。よって観念の原因が神であるということはこれで明らかです。このことが大前提となります。
そこで今度はある観念Xがあるとして,このXの原因をAと仮定した上で,このAがどのようなものでなければならないかということを具体的に考えてみます。
まず第一部公理四により,この場合はXの認識はAの認識に依存することになります。いい換えれば,ある知性がXの観念,この場合は十全な観念ということになるのですが,Xの十全な観念を有するためには,Aの観念,この場合もAの十全な観念を認識していなければなりませんし,逆に,もしもAの十全な観念を認識しているならば,Xの十全な観念を認識しているということになるでしょう。
しかし第一部公理五によって,もしもAとXに共通点がないならば,どんな知性もAを認識することによってXを認識することはできません。よってこの場合は,AとXの間には共通点があるということになります。
ところで,AとXに共通点があるということは,AとXが実在的には区別されないということを意味します。よってAとXは同一の属性に属します。つまりXが観念であるならば,観念は思惟の様態ですので,Aは神ですが,それは思惟する限りでの神,いい換えれば神の思惟の属性であるということになるのです。