スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

正しいということ&無限様態の場合

2008-03-14 21:45:53 | 哲学
 一般的に何かが正しいといわれるとき,ふたつの場合があると僕は考えています。ひとつはそれが真理であるということ。この場合は真偽に関係します。もうひとつは正義であるということ。この場合は善悪に関係することになります。
 このうち真理というのは普遍的で永遠のものです。したがってこれは万人に共通です。たとえば三角形の内角の和が180度であること,あるいは第一部定義六のように神を絶対に無限な実体とした場合に,第一部定理一一のとくに第三の証明により,神が実在するということなどは,こうした真理に属するといえるでしょう。したがってこの意味である事柄を正しいというなら,それは正しいか誤っているかのどちらかでしかありません。
 しかし善悪は普遍的なものでも永遠のものでもありません。第四部定理八により,善悪は各人の喜びと悲しみの認識にほかならず,何に喜び,何に悲しむのかということは,第三部定理五一により各人によって異なるからです。すなわち,普遍的な正義なるものはなく,むしろ何が正義であり何が不正あるいは邪悪であるかの判断は,各人によって異なることになります。したがってこの意味である事柄を正しいというなら,これは正しいか誤っているかの二者択一ではなく,むしろそのようにいう人間の意見の表明にすぎません。
 正義は善に関係し,善は喜びであり,喜びは第三部諸感情の定義二によりその人間の本性の完全性のより大なる状態への移行ですから,各人が自分が正義であると信じる事柄を実行することはよいことだと思います。しかしそれは万人に共通ではありません。そのゆえに,それを正義である,正しいと主張することは,むしろ危険なことであろうと僕は考えています。

 一口に様態といっても,無限様態と有限様態すなわち個物とがあります,このうち,現在の考察と関連して第二部定理五の意味を考えていく場合には,無限様態の場合の方が理解しやすいだろうと思われますので,先にこの場合の方を考察していくことにします。
 無限様態はさらにふたつ,直接無限様態と間接無限様態に分けられますが,これはどちらで考えても同じことになります,そこでここでは直接無限様態の方でいくことにします。
 第一部定理二一にあるように,直接無限様態というのは神のある属性の絶対的本性を原因として,必然的に生じます。そこで十全な観念が直接無限様態としてある場合には,十全な観念は思惟の様態としてあるわけですから,神の思惟の属性の絶対的本性を原因としてあるということになります。そしてこのとき重要になるのは,単に思惟の属性の絶対的本性が直接無限様態の原因となっているということだけでなく,第一部公理三によれば,原因というものが与えられさえすれば,結果はそこから必然的に生じてくるわけですから,神の思惟の属性が存在する限り,直接無限様態としての十全な観念もまた必然的に存在するということになるということです。いい換えれば,思惟の属性は永遠のうちに存在しますから,直接無限様態としての十全な観念もまた,永遠から永遠にわたって実在するということになります。
 同様のことが間接無限様態にも妥当します。これは第一部定理二一の代わりに,第一部定理二二を用いることによって,これと同じ仕方で論証できます。
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