福岡県飯塚市の旧伊藤伝右衛門邸での対局となった第24期女流王位戦五番勝負第三局。
里見香奈女流王位の先手で初手から▲2六歩と居飛車を明示。甲斐智美女流四段の△3四歩に▲2五歩。この指し方は相居飛車にすると後手が少し得をするということになっていて,甲斐四段はそれを選択しました。ちょうど前日から始まった名人戦と同じ立ち上がり。名人戦は矢倉に進みましたが,この将棋は互いに5筋を突いてから角換りという,定跡にはまったくない将棋に。先手は5筋に飛車を回り,銀が5五に出て中央を制圧。わりと早い段階から差がついていたものと思われます。
△5六歩の垂らしに中央の銀を引いた局面。ここで△2七角と打っていきましたが,結果論でいえば,別の差し方をするべきであったと思われます。▲3六角△同角成▲同歩までは一直線と思えます。そこで再度の△2七角。この手はあまりいい手ではなかったと思いますが,手の流れだけでいえばこれ以外にはあり得ないように思えます。そこで▲5四角。手をこまねいていては角の行き場がなくなりますから△3五歩はこの一手。そこで▲4八金と上がりましたが,この手が好手だったように思います。△3六角成▲同角△同歩と交換になったところで▲5六飛。△8六歩▲同銀としてから△2八角と打っていきましたが,ここではこれくらいしかやりようがないのかもしれません。▲3六飛△1九角成▲3四歩△同銀▲同飛となって,先手の駒得になりました。
攻めに効いていたとはいえない先手の香車と,後手の守りの銀の交換なので,単純な銀香交換よりもさらに先手の得が大きそうで,ここでは先手がはっきりとしたリードを奪っているといえそうです。将棋は後手からの反撃が有効な形ではなく,ほぼ先手が一方的に攻めて勝利を収めました。
里見女流王位が勝って防衛に王手。第四局は来月5日です。
第一部定理二六の後半部分も第一部定理二七も,ある否定あるいは限定を含んでいるわけではないと僕が考える根拠は,ふたつあります。それを順に説明しておきます。
まず最初のものは,『エチカ』の全体の連関あるいは流れの中において,これらふたつの定理がどのような位置付けにあると理解されるべきなのかという考え方です。
それだけを単独で抽出してこのふたつの定理を読解すると,両方ともふたつの観点から読むことが可能な文章になっていると思います。ひとつは,ここまでの考察で主に提出してきたもので,これを物の観点から読解するものです。この場合,ものは神に決定されることによって作用することが可能となり,その決定を受けなければ作用をなすことは不可能であり,かつその決定を受けたならばそれを覆して作用しないということも不可能であるということになります。
しかし一方で,実はこれらの定理というのは,神の観点という別の観点から読解することも明らかに可能だと思うのです。この場合には,神が決定することによって物は作用することになり,その決定は絶対的なものであるということになります。念のためにいっておきますが,この場合に神の決定というのは,神の意志による決定ではありません。神の本性の必然性による決定です。
物の観点からふたつの定理を読解するなら,確かにそれは物に対する限定ないしは否定的なことについて言及されているといえます。しかし神の観点からこれらを読解するなら,むしろそこでいわれていることは神の働きそのもの,しかもそれは神の本性の法則のみに従うような神の働きであるということになります。いってみればこれは第一部定義七でいわれている自由であるものについて言及されているということになります。したがってこのようにこれらの定理を解する限り,そこには純粋な肯定だけが含まれているのであって,一切の否定や限定は含まれていないと理解されなければなりません。もちろん,それが純粋な,絶対的な肯定であるから,直ちに積極的であるとはいえないかもしれません。しかし少なくとも,積極的といい得る要素を十全に構成しているといえます。
里見香奈女流王位の先手で初手から▲2六歩と居飛車を明示。甲斐智美女流四段の△3四歩に▲2五歩。この指し方は相居飛車にすると後手が少し得をするということになっていて,甲斐四段はそれを選択しました。ちょうど前日から始まった名人戦と同じ立ち上がり。名人戦は矢倉に進みましたが,この将棋は互いに5筋を突いてから角換りという,定跡にはまったくない将棋に。先手は5筋に飛車を回り,銀が5五に出て中央を制圧。わりと早い段階から差がついていたものと思われます。
△5六歩の垂らしに中央の銀を引いた局面。ここで△2七角と打っていきましたが,結果論でいえば,別の差し方をするべきであったと思われます。▲3六角△同角成▲同歩までは一直線と思えます。そこで再度の△2七角。この手はあまりいい手ではなかったと思いますが,手の流れだけでいえばこれ以外にはあり得ないように思えます。そこで▲5四角。手をこまねいていては角の行き場がなくなりますから△3五歩はこの一手。そこで▲4八金と上がりましたが,この手が好手だったように思います。△3六角成▲同角△同歩と交換になったところで▲5六飛。△8六歩▲同銀としてから△2八角と打っていきましたが,ここではこれくらいしかやりようがないのかもしれません。▲3六飛△1九角成▲3四歩△同銀▲同飛となって,先手の駒得になりました。
攻めに効いていたとはいえない先手の香車と,後手の守りの銀の交換なので,単純な銀香交換よりもさらに先手の得が大きそうで,ここでは先手がはっきりとしたリードを奪っているといえそうです。将棋は後手からの反撃が有効な形ではなく,ほぼ先手が一方的に攻めて勝利を収めました。
里見女流王位が勝って防衛に王手。第四局は来月5日です。
第一部定理二六の後半部分も第一部定理二七も,ある否定あるいは限定を含んでいるわけではないと僕が考える根拠は,ふたつあります。それを順に説明しておきます。
まず最初のものは,『エチカ』の全体の連関あるいは流れの中において,これらふたつの定理がどのような位置付けにあると理解されるべきなのかという考え方です。
それだけを単独で抽出してこのふたつの定理を読解すると,両方ともふたつの観点から読むことが可能な文章になっていると思います。ひとつは,ここまでの考察で主に提出してきたもので,これを物の観点から読解するものです。この場合,ものは神に決定されることによって作用することが可能となり,その決定を受けなければ作用をなすことは不可能であり,かつその決定を受けたならばそれを覆して作用しないということも不可能であるということになります。
しかし一方で,実はこれらの定理というのは,神の観点という別の観点から読解することも明らかに可能だと思うのです。この場合には,神が決定することによって物は作用することになり,その決定は絶対的なものであるということになります。念のためにいっておきますが,この場合に神の決定というのは,神の意志による決定ではありません。神の本性の必然性による決定です。
物の観点からふたつの定理を読解するなら,確かにそれは物に対する限定ないしは否定的なことについて言及されているといえます。しかし神の観点からこれらを読解するなら,むしろそこでいわれていることは神の働きそのもの,しかもそれは神の本性の法則のみに従うような神の働きであるということになります。いってみればこれは第一部定義七でいわれている自由であるものについて言及されているということになります。したがってこのようにこれらの定理を解する限り,そこには純粋な肯定だけが含まれているのであって,一切の否定や限定は含まれていないと理解されなければなりません。もちろん,それが純粋な,絶対的な肯定であるから,直ちに積極的であるとはいえないかもしれません。しかし少なくとも,積極的といい得る要素を十全に構成しているといえます。