スピノザと言語について説明したときに,工藤喜作の『スピノザ』を参照しました。

これは清水書院から発刊されている「人と思想」というシリーズの中の一冊。このスピノザ編はシリーズナンバーで58となっています。僕はスピノザしか所有していませんが,その巻末を見ますと200冊近くがあって,一大シリーズといえるでしょう。あくまでも掲載されているのがそれだけということで,その後に発行されたものがあるとすれば,200を超えていると思われます。発行は1980年。僕が所有しているのは第9刷で,2005年のものですから,そういう可能性はあると思います。
人と思想というシリーズの題名からも理解できますように,この本は大きくいえば二部構成になっています。すなわちひとつはスピノザの生涯に関しての解説。僕が参照したのはこちらということになります。そしてもうひとつはいうまでもなくスピノザの思想の解説です。これはおそらくこのシリーズのすべてがそうなっているのではないでしょうか。ただし実際にはスピノザ編は三部構成となっていて,第一部がスピノザが生きていた時代の解説に充てられ,第二部がスピノザの生涯の解説となっています。
スピノザは哲学の形而上学的側面よりは,実践の側面を重視していたと僕は考えています。ただ,この本の第三部,すなわちスピノザの思想の解説部分は,その大部分が『エチカ』の解説となっています。もっとも,スピノザの思想ということになれば,それを代表するのは『エチカ』をおいてほかにはないでしょうから,これは当然といえば当然かもしれません。
哲学書にありがちな読みにくさはまったくありません。スピノザに関する入門書としては,とても良質なものだと思います。
もうひとつ,「スピノザのマテリアリスム」に関連して,その首尾一貫性が保たれていると僕がみなす根拠,いい換えれば,僕が桜井直文とこれに関する結論の共有をする根拠としてあげたいことは,第一部定理二六そのものの中にあります。それは,物が作用に決定されるならば,それは神から必然的に決定されたのだとスピノザが主張している点です。ただし,これについて考える前に,ここでいわれている必然的ということをどのように解釈するべきであるのかということを確認しておかなければなりません。

第一部定義七は,まず,自己の本性の必然性のみによって存在し,働きに決定されるものは自由であるといっています。よってこれでみるならば,必然というのが自由と関係するということは明白でしょう。しかし一方で,ほかから存在と作用に決定されるものは必然的であるともいわれています。つまりこれでみるならば,必然ということばはむしろ強制のいい換えなのであって,自由とは対立するものであると理解しなければなりません。
要するに『エチカ』は,自由であるものに関しても強制されるものに関しても,必然的であるといういい方が可能であるようになっているのです。いい換えれば,それが積極的であるとみなす要素が可能である事柄に関しても,逆にそれが積極的であるとみなすことが不可能になる要素に関しても,同じように必然的であるといい得るような内容を有しているのです。そしてスピノザは,必然ということがどのようなことを示すのかということに関しては定義を与えていませんから,今回の考察のように,そのどちらに解釈するのかによって結論が異なってしまうような場合には,どのような意味においてスピノザが必然ということばを用いているのかということを,その都度,確かめておかなければならないのです。

このような,必然ということばに関する問題意識というものは,岩波文庫版の訳者である畠中尚志も有しています。実際に第一部定義七には訳注が付されていて,そこでは,この定義においては自由と必然が対立概念をなしているけれども,必然というのが自己の内部の法則とみなし得る場合には,むしろ自由と必然は合致すると説明されているのです。

これは清水書院から発刊されている「人と思想」というシリーズの中の一冊。このスピノザ編はシリーズナンバーで58となっています。僕はスピノザしか所有していませんが,その巻末を見ますと200冊近くがあって,一大シリーズといえるでしょう。あくまでも掲載されているのがそれだけということで,その後に発行されたものがあるとすれば,200を超えていると思われます。発行は1980年。僕が所有しているのは第9刷で,2005年のものですから,そういう可能性はあると思います。
人と思想というシリーズの題名からも理解できますように,この本は大きくいえば二部構成になっています。すなわちひとつはスピノザの生涯に関しての解説。僕が参照したのはこちらということになります。そしてもうひとつはいうまでもなくスピノザの思想の解説です。これはおそらくこのシリーズのすべてがそうなっているのではないでしょうか。ただし実際にはスピノザ編は三部構成となっていて,第一部がスピノザが生きていた時代の解説に充てられ,第二部がスピノザの生涯の解説となっています。
スピノザは哲学の形而上学的側面よりは,実践の側面を重視していたと僕は考えています。ただ,この本の第三部,すなわちスピノザの思想の解説部分は,その大部分が『エチカ』の解説となっています。もっとも,スピノザの思想ということになれば,それを代表するのは『エチカ』をおいてほかにはないでしょうから,これは当然といえば当然かもしれません。
哲学書にありがちな読みにくさはまったくありません。スピノザに関する入門書としては,とても良質なものだと思います。
もうひとつ,「スピノザのマテリアリスム」に関連して,その首尾一貫性が保たれていると僕がみなす根拠,いい換えれば,僕が桜井直文とこれに関する結論の共有をする根拠としてあげたいことは,第一部定理二六そのものの中にあります。それは,物が作用に決定されるならば,それは神から必然的に決定されたのだとスピノザが主張している点です。ただし,これについて考える前に,ここでいわれている必然的ということをどのように解釈するべきであるのかということを確認しておかなければなりません。

第一部定義七は,まず,自己の本性の必然性のみによって存在し,働きに決定されるものは自由であるといっています。よってこれでみるならば,必然というのが自由と関係するということは明白でしょう。しかし一方で,ほかから存在と作用に決定されるものは必然的であるともいわれています。つまりこれでみるならば,必然ということばはむしろ強制のいい換えなのであって,自由とは対立するものであると理解しなければなりません。
要するに『エチカ』は,自由であるものに関しても強制されるものに関しても,必然的であるといういい方が可能であるようになっているのです。いい換えれば,それが積極的であるとみなす要素が可能である事柄に関しても,逆にそれが積極的であるとみなすことが不可能になる要素に関しても,同じように必然的であるといい得るような内容を有しているのです。そしてスピノザは,必然ということがどのようなことを示すのかということに関しては定義を与えていませんから,今回の考察のように,そのどちらに解釈するのかによって結論が異なってしまうような場合には,どのような意味においてスピノザが必然ということばを用いているのかということを,その都度,確かめておかなければならないのです。

このような,必然ということばに関する問題意識というものは,岩波文庫版の訳者である畠中尚志も有しています。実際に第一部定義七には訳注が付されていて,そこでは,この定義においては自由と必然が対立概念をなしているけれども,必然というのが自己の内部の法則とみなし得る場合には,むしろ自由と必然は合致すると説明されているのです。