日本時間で昨夜8時50分の発走となった,シンガポールでのクリスフライヤー国際スプリントGⅠ芝1200mに,2010年のセントウルステークス,2011年のオーシャンステークスとCBC賞を勝っているダッシャーゴーゴーが出走しました。
11頭立てで9番枠。やや出負けしたように見えましたが,それほど後方になることはなく,前に2頭,その後ろに2頭,そしてその後ろの外という位置からの追走に。あまり動きのないまま直線に入ってきましたが,ここから追い出されると伸びを欠き,最後は流すように10着入線。といっても1頭は直線で落馬していますので,実質的には最下位でした。
状態がどの程度のものであったかは分かりません。ただ仮に絶好調であったとしても,この馬の力では厳しいのではないかとみていました。日本からもようやくこの路線で世界を相手に戦える馬は出てきたのですが,それは本当にトップクラスの馬に限られるということなのではないでしょうか。
このように検討してみると,「スピノザのマテリアリスム」は,どこか矛盾していることを主張しているというような印象を受けないでしょうか。なぜなら,第一部定理二六の後半部分は,第一部定義七に照らし合わせれば,ものは神に強制されない限り作用することはないと主張されているように思えます。そして第一部定理二七というのは,ものはその強制から逃れることができないと主張されているように思えます。しかるに第一部定義七で強制されるといわれているとき,それは明らかに強制されるものについての否定ないしは限定なのであって,このことが積極的であるといわれ得る事柄の要素を構成するということは不可能です。しかし一方では,第一部定理二六の後半部分も第一部定理二七も,それが積極的であるといわれ得るような要素を構成すると考えなければ,「スピノザのマテリアリスム」の主張は成立しないのです。したがってこれでみれば,そこでは相反する,あるいは両立することが不可能であるようなふたつの事柄が,同時に主張されているかのようなのです。
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実際にはこれは抱かれる印象だけを基にしたもので,桜井直文は矛盾したことを主張しているというわけではありません。むしろ桜井の主張というのは首尾一貫したものだと読解できるようになっています。そしてその場合に桜井が重視するのが,働きと作用のスピノザの哲学における相違です。もののある作用の真っただ中に神の働きがあるということから,この作用というのは積極的とみなされる要素を構成するということになっています。マシュレは働きと作用というのは,単に観点の相違にすぎないと主張したと桜井はいっています。ただし,僕はこれについては,単に観点の相違,いい換えれば同じ事柄の別の側面であると理解することは,必ずしも妥当ではないのではないかと思っています。また桜井は,確かにそうしたマシュレの主張についてはそこで紹介しているものの,自身の見解というものを明確にしているとはいえず,これをどう考えているのかは不明です。
もっとも,桜井の首尾一貫性の保ち方との関係を除去すれば,このことは現在の考察とは直接は無関係です。
11頭立てで9番枠。やや出負けしたように見えましたが,それほど後方になることはなく,前に2頭,その後ろに2頭,そしてその後ろの外という位置からの追走に。あまり動きのないまま直線に入ってきましたが,ここから追い出されると伸びを欠き,最後は流すように10着入線。といっても1頭は直線で落馬していますので,実質的には最下位でした。
状態がどの程度のものであったかは分かりません。ただ仮に絶好調であったとしても,この馬の力では厳しいのではないかとみていました。日本からもようやくこの路線で世界を相手に戦える馬は出てきたのですが,それは本当にトップクラスの馬に限られるということなのではないでしょうか。
このように検討してみると,「スピノザのマテリアリスム」は,どこか矛盾していることを主張しているというような印象を受けないでしょうか。なぜなら,第一部定理二六の後半部分は,第一部定義七に照らし合わせれば,ものは神に強制されない限り作用することはないと主張されているように思えます。そして第一部定理二七というのは,ものはその強制から逃れることができないと主張されているように思えます。しかるに第一部定義七で強制されるといわれているとき,それは明らかに強制されるものについての否定ないしは限定なのであって,このことが積極的であるといわれ得る事柄の要素を構成するということは不可能です。しかし一方では,第一部定理二六の後半部分も第一部定理二七も,それが積極的であるといわれ得るような要素を構成すると考えなければ,「スピノザのマテリアリスム」の主張は成立しないのです。したがってこれでみれば,そこでは相反する,あるいは両立することが不可能であるようなふたつの事柄が,同時に主張されているかのようなのです。
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実際にはこれは抱かれる印象だけを基にしたもので,桜井直文は矛盾したことを主張しているというわけではありません。むしろ桜井の主張というのは首尾一貫したものだと読解できるようになっています。そしてその場合に桜井が重視するのが,働きと作用のスピノザの哲学における相違です。もののある作用の真っただ中に神の働きがあるということから,この作用というのは積極的とみなされる要素を構成するということになっています。マシュレは働きと作用というのは,単に観点の相違にすぎないと主張したと桜井はいっています。ただし,僕はこれについては,単に観点の相違,いい換えれば同じ事柄の別の側面であると理解することは,必ずしも妥当ではないのではないかと思っています。また桜井は,確かにそうしたマシュレの主張についてはそこで紹介しているものの,自身の見解というものを明確にしているとはいえず,これをどう考えているのかは不明です。
もっとも,桜井の首尾一貫性の保ち方との関係を除去すれば,このことは現在の考察とは直接は無関係です。