第54期王位戦挑戦者決定リーグの紅組は,行方尚史八段が4連勝,対戦相手の松尾歩七段が3勝1敗で,行方八段が勝てば挑戦者決定戦に進出,松尾七段が勝てば両者によるプレーオフという状況で13日の対局を迎えました。対戦成績は行方八段が5勝,松尾七段が3勝。
松尾七段の先手で力戦相居飛車。先手だけが飛車先を交換できましたので,その分の得があったと思うのですが,中盤で6筋に飛車を回ったら飛車交換を挑まれ,それを拒絶せざるを得なくなり,ややまずくしたようです。
先手が角を打った局面。後手は無視して△5四飛と出ていきました。▲6一角成は負けてもこうするところでしょう。△5八角に▲6八玉と逃げ,△4九角成に▲5五歩△同飛としてから▲5九金と受けました。玉の堅さが頼りの後手は△4八馬▲同金△3九銀と追撃。▲2六飛と逃げたので△4八銀不成で金を入手。ここから▲5六歩△4五飛▲4六歩に△6五飛の王手。必然的に▲同金△同桂と進みました。
第1図で飛車が飛び出してからはずっと後手が攻めきれるのか先手が受けきれるのかという戦いだったのですが,この桂馬が使えたのが大きく,ここでは後手の攻めが繋がったようです。先手はここから反撃に転じましたが届かず,最後は即詰みで討ち取り後手が勝ちました。
行方八段が挑戦者決定戦に進出。全勝同士の挑戦者決定戦は29日です。
それでは第一部定理一七系二でスピノザが自由原因というとき,それがどんな意味であるのかということが問題となってきます。これに関しては,この系の論証の過程と合わせて説明します。第一部定理一七系二ですから,それは第一部定理一七から帰結するということになります。
「神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き,何ものにも強制されて働くことがない」。
この定理は背理法によって証明されます。まず前提となるのは,もしも神が何かによって強制されることによって働くということがあるとしたら,神を強制する何かが存在するということになります。そしてそれは神のうちに存在するか,そうでなければ神の外に存在するかのどちらかでしょう。
まず第一部定理一六は,神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で,神のうちに生じることを示しています。よって神は神自身のうちにあるものに対しては本性の上で「先立つ」といわれる存在です。第一部公理三によれば,原因が与えられなければ結果は生じない,いい換えれば,原因は結果に対して本性の上で「先立つ」存在でなければなりません。よって神のうちには神を強制するような何かが存在するということはありません。
次に,第一部定理一五というのは,あらゆるものはあるとするなら神のうちにあるということを示しています。いい換えれば神の外に何かがあるということはありません。したがって当然ながら神を強制するような何かが神の外にあるということもありません。
つまり,神を強制するような何かは,神のうちにあることはできないし,神の外にあるということもできません。いい換えれば神を強制するようなものは存在することができません。したがって,神は働くとするなら,それは神自身の本性の必然性,あるいは同じことですが神の本性の法則のみによって働くということになるのです。
なお,僕は今はこの定理を名目的な定理であるかのように証明しましたが,実際にはこれは実在的定理です。神が働くということは名目的な事柄ではなく,実際に働くのです。ただ,定理の証明とすればこれで十分だと思います。
松尾七段の先手で力戦相居飛車。先手だけが飛車先を交換できましたので,その分の得があったと思うのですが,中盤で6筋に飛車を回ったら飛車交換を挑まれ,それを拒絶せざるを得なくなり,ややまずくしたようです。
先手が角を打った局面。後手は無視して△5四飛と出ていきました。▲6一角成は負けてもこうするところでしょう。△5八角に▲6八玉と逃げ,△4九角成に▲5五歩△同飛としてから▲5九金と受けました。玉の堅さが頼りの後手は△4八馬▲同金△3九銀と追撃。▲2六飛と逃げたので△4八銀不成で金を入手。ここから▲5六歩△4五飛▲4六歩に△6五飛の王手。必然的に▲同金△同桂と進みました。
第1図で飛車が飛び出してからはずっと後手が攻めきれるのか先手が受けきれるのかという戦いだったのですが,この桂馬が使えたのが大きく,ここでは後手の攻めが繋がったようです。先手はここから反撃に転じましたが届かず,最後は即詰みで討ち取り後手が勝ちました。
行方八段が挑戦者決定戦に進出。全勝同士の挑戦者決定戦は29日です。
それでは第一部定理一七系二でスピノザが自由原因というとき,それがどんな意味であるのかということが問題となってきます。これに関しては,この系の論証の過程と合わせて説明します。第一部定理一七系二ですから,それは第一部定理一七から帰結するということになります。
「神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き,何ものにも強制されて働くことがない」。
この定理は背理法によって証明されます。まず前提となるのは,もしも神が何かによって強制されることによって働くということがあるとしたら,神を強制する何かが存在するということになります。そしてそれは神のうちに存在するか,そうでなければ神の外に存在するかのどちらかでしょう。
まず第一部定理一六は,神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で,神のうちに生じることを示しています。よって神は神自身のうちにあるものに対しては本性の上で「先立つ」といわれる存在です。第一部公理三によれば,原因が与えられなければ結果は生じない,いい換えれば,原因は結果に対して本性の上で「先立つ」存在でなければなりません。よって神のうちには神を強制するような何かが存在するということはありません。
次に,第一部定理一五というのは,あらゆるものはあるとするなら神のうちにあるということを示しています。いい換えれば神の外に何かがあるということはありません。したがって当然ながら神を強制するような何かが神の外にあるということもありません。
つまり,神を強制するような何かは,神のうちにあることはできないし,神の外にあるということもできません。いい換えれば神を強制するようなものは存在することができません。したがって,神は働くとするなら,それは神自身の本性の必然性,あるいは同じことですが神の本性の法則のみによって働くということになるのです。
なお,僕は今はこの定理を名目的な定理であるかのように証明しましたが,実際にはこれは実在的定理です。神が働くということは名目的な事柄ではなく,実際に働くのです。ただ,定理の証明とすればこれで十分だと思います。