4月26日から29日まで,福井競輪場で開催されていた共同通信社杯の決勝。並びは神山拓哉ー神山雄一郎の栃木,深谷に三宅,村上の後ろが長塚-岡田の関東と安東で競り,飯野は単騎。
迷わずに深谷が飛び出して前受け。3番手が村上,この後ろは最終的には安東-長塚-岡田で,岡田の後ろに神山拓哉。最後尾から飯野で周回。残り2周のホームから神山拓哉が動いていき,飯野まで続いてバックで深谷を叩くと,打鐘から村上が発進してかまし先行。この踏み込みで番手は長塚に。岡田もどうにか続いて,4番手に深谷が入りました。後方から動きはなく,一列棒状でバックに入ると,長塚が車間を開けて後ろの動きを警戒。コーナーから深谷が捲り追い込んでいくと,これに併せて長塚も発進。深谷もよく迫りましたが余裕の走行になった長塚が半車輪差で優勝。2着が深谷。長塚マークの岡田が4分の3車身差で3着。4着の村上まで,S級S班の4人で上位独占。
優勝した茨城の長塚智広選手は昨年暮れの伊東温泉記念以来のグレードレース優勝。ビッグは一昨年12月の競輪祭以来となる2勝目。ここは栃木と分かれ,さらに飯野でもなく競りでも村上の後ろを選択した作戦の勝利。競る相手との力量差から,番手は奪えるだろうと思っていましたが,実質的な競りなしに,踏み出しだけで番手を確保できたのが大きかったです。僕は競輪レーサーはとくにラインにこだわらず,自分の勝利に最も近いと考える位置を追求するべきであると考えていますが,その姿勢で臨んでの優勝といえるでしょう。また,そういった選択をさせる村上も立派な選手だと思います。
最初に押さえておくべきことは,もしも諸個人によって異なった観念ideaの連結が生じる場合には,その認識作用を自明なものとみなすことはできないという点です。そしてそのことを,第四部定理三二から導いたということです。いい換えればそれは,各々の人間の本性humana natura,natura humana,ここでは各々の人間の精神mensの本性に限定しても構いませんが,それが一致するのでない場合には,その認識cognitioは必然的に自明であるとはいわれ得ないのです。したがってこれを逆に考えれば,少なくとも諸個人の精神の本性が一致するような認識の中にしか,自明であるといわれ得るような事柄はあることができないということになります。
さらにいえば,実はこのことは,各々の人間の精神の間における異なった認識に注目しなくとも帰結するのです。それを示しているのは第四部定理三三です。
「人間は受動という感情に捉われる限りにおいて本性上たがいに相違しうるし,またその限りにおいては同一の人間でさえ変りやすくかつ不安定である」。
ここではスピノザの主張を把握することが重要ですから,証明Demonstratioは省略します。そしてこの定理Propositioの前半の部分というのは,各々の人間の本性の相違について説明していますが,後半部分はそうではなく,あるひとりの人間について説明されています。したがってこのことはひとりの人間の精神についても妥当しなければなりません。現在の考察に引き寄せていうなら,この後半部分というのは,同一の人間の精神が,あるときにはAからXを知覚し,しかしそれとは別のときには同じAからYを知覚することがあり得るという意味に理解できます。なのでその各々の認識作用に関してそれを自明であるというならば,同じ人間にとって,Aに関してあるときはXが,しかし別のときにはYが自明であるということになるでしょう。これが不条理な主張であるということもまた,とくに説明するまでもないでしょう。
したがって,自明であるということは,諸個人の精神の本性が一致する限りでの認識作用のうちにしかないのですが,このことは,人間のAの精神と人間Bの精神の本性とを比較した上で,その本性が一致するといわれるような意味であるというより,同じ人間の精神が,必然的にnecessario同一の認識作用をなすという意味において,本性が一致するのであり,そのことが万人の精神に該当すると理解するべきかもしれません。
迷わずに深谷が飛び出して前受け。3番手が村上,この後ろは最終的には安東-長塚-岡田で,岡田の後ろに神山拓哉。最後尾から飯野で周回。残り2周のホームから神山拓哉が動いていき,飯野まで続いてバックで深谷を叩くと,打鐘から村上が発進してかまし先行。この踏み込みで番手は長塚に。岡田もどうにか続いて,4番手に深谷が入りました。後方から動きはなく,一列棒状でバックに入ると,長塚が車間を開けて後ろの動きを警戒。コーナーから深谷が捲り追い込んでいくと,これに併せて長塚も発進。深谷もよく迫りましたが余裕の走行になった長塚が半車輪差で優勝。2着が深谷。長塚マークの岡田が4分の3車身差で3着。4着の村上まで,S級S班の4人で上位独占。
優勝した茨城の長塚智広選手は昨年暮れの伊東温泉記念以来のグレードレース優勝。ビッグは一昨年12月の競輪祭以来となる2勝目。ここは栃木と分かれ,さらに飯野でもなく競りでも村上の後ろを選択した作戦の勝利。競る相手との力量差から,番手は奪えるだろうと思っていましたが,実質的な競りなしに,踏み出しだけで番手を確保できたのが大きかったです。僕は競輪レーサーはとくにラインにこだわらず,自分の勝利に最も近いと考える位置を追求するべきであると考えていますが,その姿勢で臨んでの優勝といえるでしょう。また,そういった選択をさせる村上も立派な選手だと思います。
最初に押さえておくべきことは,もしも諸個人によって異なった観念ideaの連結が生じる場合には,その認識作用を自明なものとみなすことはできないという点です。そしてそのことを,第四部定理三二から導いたということです。いい換えればそれは,各々の人間の本性humana natura,natura humana,ここでは各々の人間の精神mensの本性に限定しても構いませんが,それが一致するのでない場合には,その認識cognitioは必然的に自明であるとはいわれ得ないのです。したがってこれを逆に考えれば,少なくとも諸個人の精神の本性が一致するような認識の中にしか,自明であるといわれ得るような事柄はあることができないということになります。
さらにいえば,実はこのことは,各々の人間の精神の間における異なった認識に注目しなくとも帰結するのです。それを示しているのは第四部定理三三です。
「人間は受動という感情に捉われる限りにおいて本性上たがいに相違しうるし,またその限りにおいては同一の人間でさえ変りやすくかつ不安定である」。
ここではスピノザの主張を把握することが重要ですから,証明Demonstratioは省略します。そしてこの定理Propositioの前半の部分というのは,各々の人間の本性の相違について説明していますが,後半部分はそうではなく,あるひとりの人間について説明されています。したがってこのことはひとりの人間の精神についても妥当しなければなりません。現在の考察に引き寄せていうなら,この後半部分というのは,同一の人間の精神が,あるときにはAからXを知覚し,しかしそれとは別のときには同じAからYを知覚することがあり得るという意味に理解できます。なのでその各々の認識作用に関してそれを自明であるというならば,同じ人間にとって,Aに関してあるときはXが,しかし別のときにはYが自明であるということになるでしょう。これが不条理な主張であるということもまた,とくに説明するまでもないでしょう。
したがって,自明であるということは,諸個人の精神の本性が一致する限りでの認識作用のうちにしかないのですが,このことは,人間のAの精神と人間Bの精神の本性とを比較した上で,その本性が一致するといわれるような意味であるというより,同じ人間の精神が,必然的にnecessario同一の認識作用をなすという意味において,本性が一致するのであり,そのことが万人の精神に該当すると理解するべきかもしれません。