この時期の3歳牝馬にとっては過酷と思える条件の第74回優駿牝馬。
このメンバーですとクロフネサプライズの逃げになるのは自然。追っていったのは2頭でサクラプレジールとトーセンソレイユ。好位から中団にかけては集団となり,クラウンロゼ,ティアーモとフロアクラフト,リラコサージュ,エバーブロッサム,メイショウマンボとアユサンとスイートサルサまで。最初の1000mは59秒6のハイペース。実はスローな流れになることを予想していたのですが,逃げ馬は抑えが効かなかったのではないかと思います。
今日はあまり前が止まらない馬場状態ではありましたが,さすがにこのペースでは先行勢は苦しく壊滅。かといって後方から届くような馬場状態ではなく,中団に位置していた馬に有利に働きました。その1頭,メイショウマンボが直線で大外に出されると瞠目の末脚で一気に突き抜け,1馬身半差で快勝。これを追うような競馬になったエバーブロッサムが2着。前半は最後尾に位置したデニムアンドルビーもよく伸びてはきましたが,今日のところは2馬身差の3着が精一杯。
優勝したメイショウマンボは前々走のフィリーズレビュー以来の重賞2勝目で大レース初勝利。そのときの内容が非常に強く思えましたので,桜花賞は大敗でしたがここも候補の1頭と考えていました。フィリーズレビューは能力で勝ったもので,距離が延びた方が本領を発揮できるタイプなのでしょう。ただし馬場状態と展開が有利に作用した一面もあったとは思います。父は2005年の天皇賞(春)を勝ったスズカマンボ。母の父はグラスワンダー。母のはとこに2008年のフィリーズレビューとローズステークスを勝ったマイネレーツェル。
騎乗した武幸四郎騎手は2006年の菊花賞以来の大レース制覇でオークスは初勝利。管理している飯田明弘調教師は厩舎開業24年強で大レース初勝利。
まとめると次のようになります。

第一に,桜井直文が「スピノザのマテリアリスム」において,第一部定理二六証明の積極的ということばに関して,その読解の根拠としている部分を『エチカ』に見出すとすれば,それは第一部定理一七系二をおいてほかにないと僕には思えます。
第二に,第一部定理一七系二は,必然的に第一部定理一七から帰結するのでなければなりません。
第三に,第一部定理一七から第一部定理一七系二を導出する際には,スピノザによる自由の定義である第一部定義七が欠かせません。
すると,これらのことから,あるひとつの事柄が解明します。それは,積極的ということを桜井のように読解するのであるなら,第一部定義七のうちに,その根拠となる要素が含まれていなければならないであろうということです。
そこで第一部定義七を注視すると,少なくともその後半部分というのは,積極性を欠くような事柄について示されていると僕には思えます。なぜならば,もしもあるものが存在ないしは作用する場合に,ほかから強制されることによって決定されるならば,それは明らかにそのものに関する限定であるとしか理解できないからです。そしてあるものに関する限定というのが,そのものについて積極的とはみなせないような要素を構成しているということは,そもそもこの部分の考察を開始した契機となる疑問であったわけです。
したがって,第一部定義七のうちに含まれる積極的といわれる要素をなす部分というのは,この定義の前半部分をおいてほかにはないと考えなければなりません。要するにそれは,自己の本性の必然性のみによって存在し,また自己の本性の法則のみによって働きに決定されるもの,要するにスピノザが自由といっているものが,積極的であるといわれ得ることになります。
一方,第一部定理一七系二は,そうした意味での自由原因であるものは神だけであると主張しています。つまり,ひとり神のみが自由原因であるということであり,このことは,ひとり神のみが積極的なものであるということになります。つまり積極的の被修飾語は,この場合には神であるということになるでしょう。
このメンバーですとクロフネサプライズの逃げになるのは自然。追っていったのは2頭でサクラプレジールとトーセンソレイユ。好位から中団にかけては集団となり,クラウンロゼ,ティアーモとフロアクラフト,リラコサージュ,エバーブロッサム,メイショウマンボとアユサンとスイートサルサまで。最初の1000mは59秒6のハイペース。実はスローな流れになることを予想していたのですが,逃げ馬は抑えが効かなかったのではないかと思います。
今日はあまり前が止まらない馬場状態ではありましたが,さすがにこのペースでは先行勢は苦しく壊滅。かといって後方から届くような馬場状態ではなく,中団に位置していた馬に有利に働きました。その1頭,メイショウマンボが直線で大外に出されると瞠目の末脚で一気に突き抜け,1馬身半差で快勝。これを追うような競馬になったエバーブロッサムが2着。前半は最後尾に位置したデニムアンドルビーもよく伸びてはきましたが,今日のところは2馬身差の3着が精一杯。
優勝したメイショウマンボは前々走のフィリーズレビュー以来の重賞2勝目で大レース初勝利。そのときの内容が非常に強く思えましたので,桜花賞は大敗でしたがここも候補の1頭と考えていました。フィリーズレビューは能力で勝ったもので,距離が延びた方が本領を発揮できるタイプなのでしょう。ただし馬場状態と展開が有利に作用した一面もあったとは思います。父は2005年の天皇賞(春)を勝ったスズカマンボ。母の父はグラスワンダー。母のはとこに2008年のフィリーズレビューとローズステークスを勝ったマイネレーツェル。
騎乗した武幸四郎騎手は2006年の菊花賞以来の大レース制覇でオークスは初勝利。管理している飯田明弘調教師は厩舎開業24年強で大レース初勝利。
まとめると次のようになります。
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第一に,桜井直文が「スピノザのマテリアリスム」において,第一部定理二六証明の積極的ということばに関して,その読解の根拠としている部分を『エチカ』に見出すとすれば,それは第一部定理一七系二をおいてほかにないと僕には思えます。
第二に,第一部定理一七系二は,必然的に第一部定理一七から帰結するのでなければなりません。
第三に,第一部定理一七から第一部定理一七系二を導出する際には,スピノザによる自由の定義である第一部定義七が欠かせません。
すると,これらのことから,あるひとつの事柄が解明します。それは,積極的ということを桜井のように読解するのであるなら,第一部定義七のうちに,その根拠となる要素が含まれていなければならないであろうということです。
そこで第一部定義七を注視すると,少なくともその後半部分というのは,積極性を欠くような事柄について示されていると僕には思えます。なぜならば,もしもあるものが存在ないしは作用する場合に,ほかから強制されることによって決定されるならば,それは明らかにそのものに関する限定であるとしか理解できないからです。そしてあるものに関する限定というのが,そのものについて積極的とはみなせないような要素を構成しているということは,そもそもこの部分の考察を開始した契機となる疑問であったわけです。
したがって,第一部定義七のうちに含まれる積極的といわれる要素をなす部分というのは,この定義の前半部分をおいてほかにはないと考えなければなりません。要するにそれは,自己の本性の必然性のみによって存在し,また自己の本性の法則のみによって働きに決定されるもの,要するにスピノザが自由といっているものが,積極的であるといわれ得ることになります。
一方,第一部定理一七系二は,そうした意味での自由原因であるものは神だけであると主張しています。つまり,ひとり神のみが自由原因であるということであり,このことは,ひとり神のみが積極的なものであるということになります。つまり積極的の被修飾語は,この場合には神であるということになるでしょう。